「生きるのが辛い」人へ

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・全般

人間の思考・認知のベースとなる言語でさえ、所与のものであるため
 (正確には所与のものに、徐々に自分が関与していくようになる。ただ、結局は与えられたものが前提であることに変わりない)

 

 

*「存在すること」に一定の価値を置く必要性に関するツイートを受けて

 

 →そのため、私は「人々がいかに社会的な物語に支配されているか」を“指摘”はしても、それを超えることを行うつもりはありません。
 私が願うのは、私の思想モドキが、生きるのが辛い人の助けとなったり、ミームとなって優れた「情報の組み合わせの結果物」(=人)を生み出す助けとなることのみです。
 

*関連記事

 

——17/08/15:追記——
 先日、「人の美醜」について、

 「仮に黄金比に須く人は美を感じるとしても、それに当てはまる人など極々少数である。そして、それに当てはまらない人の間にも美醜が存在している(黄金比などへの近似性以外の基準が存在している)。そこにあるのは、ただ社会的な物語のみなのではないか。
 『物語』だからこそ、時代や地域によって人の美醜は変わる。作り話にすぎないからこそ、唯一不変な基準がない。それなのに、多くの人はその基準を無思考で受け入れ、人の美醜を語る。しかし、本人たちは語っているつもりでも語らされているだけ。非常にくだらないことだ」

 というような、ここまでこの記事を読んだ方なら(納得できるかは別として)、「はいはい、これまでと同じことを人の美醜についても言っているんだよね」と理解していただけるであろうツイートを、(いつも通り)泥酔しながらtwitterで垂れ流していたところ、ありがたいことに、あって然るべき反応を頂きました。
 これについての私の考えも、ここまで読んで頂けた方なら、おそらく分かっていただけるでしょう。

 フィクションはフィクションと認識するまでは現実に他ならず、フィクションと認識して初めて、それはフィクションとなります。夢は覚めて初めて夢となります。覚めない夢は夢ではありません。
 そして、フィクションをフィクションと認識しても、夢を夢と認識しても、その時点では確かにそれらの影響を受け続けているでしょう。

 しかし、それを「捨てる」こともできますよね?フィクションをフィクションと「認識」し、夢を夢と「認識」して初めて、それを「捨てる」ことも可能となる(選択が可能になる)のです。
 「認識」できなければ、それは思考の対象にならず、疑い得ず、それに沿った思考・行動をするより他ありません。

 私が言う「社会的物語」も同じです。社会のために人が作り上げてきた「物語」を「認識」できなければ、(広義の社会化の影響によって)ただそれに従うしかありません。しかし、その存在に気付いたなら、それを捨てることも可能になるのです。
 そしてこれが、既に述べた、「社会的な物語を利用するか、社会的な物語から降りるか」ということに繋がるわけです。
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・親子

*関連記事

 

「世間体のため」などでなくとも、「この人との子どもが欲しい」という場合でさえ、子どもは欲望の充足手段になっている
 「○○のため」という論理であれば、須らく欲望の充足手段である
 「子どもが欲しい(から子どもが欲しい)」という単純そうに見える思考でも、結局は「子どもが欲しいがために、子どもが欲しい(作る)」わけで、やはり欲望の充足手段であることからは逃れられない

 

—–17/08/05:追記—–
 最近になって初めて堀江貴文氏(ホリエモン)の著作を読んでいるのですが、本という媒体では(尚更)言いにくい(言わないように圧力がかかる)ことを臆せずにきちんと言っている辺りに非常に好感が持てます。 「当たり前のことを当たり前に語る本」にこそ、価値があるのです。
 さて、そんなホリエモンの本の1つ、『君がオヤジになる前に』では、子供や家族についての世間の価値観に疑問を投げかけています。

・子どもは、親の幸福を生産するものではない。
 子どもに尽くす家庭的な人生が幸せだなんて、ただの思い込みだろう。
 幸福の主体は、自分自身に拠らせるべきだ。

・親を大事に、妻を大事に、子どもを大事に生きるのが正しいと考えている。
 はっきり言うが、そのモラルは、危険だ。
 (中略)
 そのモラルが何をもたらしてくれるのか、ちゃんと自分の頭で考えもせず、無条件で受容する生き方に意味はないし、現実にモラルハザードは起きているのだ。
 モラルを貫き通して死んでも、誰もたいして褒めてくれないだろう。「あの人は真面目だった」と、個人を偲んでもらっておしまいだ。
 それよりモラルの外に出て、自分は何をしたいのか?どう生きたいのか?を必死に考える人生の方が、僕は幸福だと信じている。


 私がこの項目で挙げた内容は、どちらかと言うと「子ども側」からの視点から、世間の「親子」というものが如何に社会的物語に規定されているかを提起するものでしたが、上記のようなホリエモンの文章は、「大人側」の視点から社会的な物語の存在を指摘し、そこからの脱却を提唱するものになっています。そちらの方が理解しやすい人も多いでしょうから、一読をお勧めします。
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・結婚

*「某大物哲学者」=カント

*関連記事

 


・労働

 *「労働」に対し、実際にそのように考える人もいる(特にアメリカなどには多い)でしょうが、そのように考える人“も”いるということは、すなわち労働自体に価値を持たせる“お話”は普遍且つ不変のものではない=社会的物語でしかない、といことの証左になるのです。

 

 

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