・全般
生まれ出でて以来社会化され続ける人間に、果たして確固たる自己などあり得るのでしょうか。特別な自分を持ち得るのだろうか。 そもそも、そのような期待も社会化の結果なのかもしれませんね。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2014年10月11日
言語を習得する時点で、完全なオリジナルティなど持ち得ないのでは。知覚、思考、行動、あらゆるものが社会によって与えられるのであって、他と関係のない自分の意思というものは幻想に過ぎない。 そう考えると、虚しくなりますね。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2014年10月11日
*人間の思考・認知のベースとなる言語でさえ、所与のものであるため。
(正確には所与のものに、徐々に自分が関与していくようになる。ただ、結局は与えられたものが前提であることに変わりない)
法律というのは結局は規定でしかなく、それに善悪などの価値を持たせるのは信仰であり、社会的な物語でしかないわけで。その物語を共有することによって生じる利益も不利益も全て手放せるなら、本来、法律を破ることも”仕方ない”ことなんですよねぇ。予見可能性の担保故に維持される物語なのです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年3月5日
「社会に貢献している人物にこそ価値がある(=そうでない人間には価値がない)」という考え。別にそれを否定してやろうなどとは思いませんが、その考えの背後になくてはおかしい、「社会にこそ価値がある」という価値観は、本当にあなたの「思考の帰結」なんですかねぇ・・・?
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年6月10日
*「存在すること」に一定の価値を置く必要性に関するツイートを受けて
存在することに一定の価値を置く、ということは社会、そして人類として必要であることは間違いなく、その通りだと思います。「自分も隣人も、みんなみんな無意味で無価値なんだ!」なんて言っていたら、社会など成り立ちようがないわけですからね。(続
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年6月1日
続)僕が言いたいことは、「それが物語である(人によって作られたもの)ということが、社会的力によって認識されないようにされ、各人の意識に上がらなくなっているのでは? 皆さん、思考なしで、理由なく他人に価値を認め過ぎなのでは? それでこの先大丈夫?」というようなことです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年6月1日
しかし・・・決して社会的な幸せは手には入らないような思考ですよね。仕方ないと言えば仕方ないですし、そういった「覚悟」がなければ、本来思考など成り立たないのでしょうが。
・・・それが「辛い」ことだからこそ、人は社会的な物語を無思考に受け入れるのでしょうね。神の信仰と同じように。— 佐FRAN (@F_Sano_) 2017年8月9日
そう考えれば、僕の思想モドキなど、広く受け入れられるものになり得ないわけです。大半の人には「幸せ」を与えず、「辛さ」だけを与えるわけですからね。まさに「害」にしかならない。
…まぁ、仕方ないですね。一種の信仰の対象となれば話も変わってくるのでしょうが、僕には荷が重いでしょう。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年8月9日
→そのため、私は「人々がいかに社会的な物語に支配されているか」を“指摘”はしても、それを超えることを行うつもりはありません。
私が願うのは、私の思想モドキが、生きるのが辛い人の助けとなったり、ミームとなって優れた「情報の組み合わせの結果物」(=人)を生み出す助けとなることのみです。
いかにこの世が社会的物語に満ちているかを理解すれば、(性的)同性愛者を、ただそれだけで否定することもなくなると思うんですよね。
だって、生殖を目的とした性行為でなければ、”社会を存続せんとする意図が介入しない限り”、相手が異性でなければいけない合理的な理由などないですから。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年8月8日
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——17/08/15:追記——
先日、「人の美醜」について、
「仮に黄金比に須く人は美を感じるとしても、それに当てはまる人など極々少数である。そして、それに当てはまらない人の間にも美醜が存在している(黄金比などへの近似性以外の基準が存在している)。そこにあるのは、ただ社会的な物語のみなのではないか。
『物語』だからこそ、時代や地域によって人の美醜は変わる。作り話にすぎないからこそ、唯一不変な基準がない。それなのに、多くの人はその基準を無思考で受け入れ、人の美醜を語る。しかし、本人たちは語っているつもりでも語らされているだけ。非常にくだらないことだ」
というような、ここまでこの記事を読んだ方なら(納得できるかは別として)、「はいはい、これまでと同じことを人の美醜についても言っているんだよね」と理解していただけるであろうツイートを、(いつも通り)泥酔しながらtwitterで垂れ流していたところ、ありがたいことに、あって然るべき反応を頂きました。
これについての私の考えも、ここまで読んで頂けた方なら、おそらく分かっていただけるでしょう。
フィクションはフィクションと認識するまでは現実に他ならず、フィクションと認識して初めて、それはフィクションとなります。夢は覚めて初めて夢となります。覚めない夢は夢ではありません。
そして、フィクションをフィクションと認識しても、夢を夢と認識しても、その時点では確かにそれらの影響を受け続けているでしょう。
しかし、それを「捨てる」こともできますよね?フィクションをフィクションと「認識」し、夢を夢と「認識」して初めて、それを「捨てる」ことも可能となる(選択が可能になる)のです。
「認識」できなければ、それは思考の対象にならず、疑い得ず、それに沿った思考・行動をするより他ありません。
私が言う「社会的物語」も同じです。社会のために人が作り上げてきた「物語」を「認識」できなければ、(広義の社会化の影響によって)ただそれに従うしかありません。しかし、その存在に気付いたなら、それを捨てることも可能になるのです。
そしてこれが、既に述べた、「社会的な物語を利用するか、社会的な物語から降りるか」ということに繋がるわけです。
———————————
ヒトのAIに対する優位性があるとすれば、それは「所与のモノを所与のモノにすぎないと認識できるか否か」という点じゃないかと思うんですよね。「柔軟性」やら「創意性」なるものは、結局は全てそこに包括されるものでは?
— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
前提とされているモノを認識し、疑うことができなくなれば、そこにヒトの優位性など存在しないでしょう。世代更新する度に失っていった“知性”を人類として取り戻せればいいですね。
まぁ、そこにあるのが「幸せ」かどうかは、僕には保証しかねますが、ね。— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
久しぶりにツイートしたのに、また「誰も幸せにならない」ようなことを呟いてしまいました。
まぁ、僕は「誰かを幸せにする」よりも、「不幸な人を減らす」ことをしたいと願っていますし、さらに言えば、「幸・不幸って、それは貴方の思考の帰結なんですか?(続— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
続) ただただ社会的な物語の中を無思考に漂っているだけじゃないですか? 一度“所与のモノ”がないか検討してみてはいかがですか? あなたを構成しているものは全て、貴方の“思考の帰結”として“選択”したものですか?」と突き付けて、“社会”の幻想性を須らく認識させることが僕の願いですからねぇ…。
— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
「そういうことにしておかないと、『社会が』困る」という論理と、「自分の思考の帰結として、それを採択する」ということは、イコールではないですからね。それをイコールとするのが、まさに社会的な物語であり、それを認識していない存在がいることこそ、社会的な物語の恐ろしい力なのです。
— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
僕がそう指摘したところで何も思うところのない人が大半であろうことこそ、僕が“恐れる”ことなのですよ。「社会」を所与のモノとして思考の対象にせず、その価値を“前提”としている人のなんと多いことか。それじゃただのお人形さんでしょう……。
— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
「帰結が変わらなければ思考しなくていい」というわけじゃないでしょう。各人が思考することこそが必要なのでは? 世代更新する度に知性が劣化していくのでは、「知性有し存在」を謳うのは滑稽でしかありません。所与のモノが所与のモノであると認識しなくなれば、コンピュータにも劣りかねませんよ。
— 佐FRAN (@F_Sano_) 2018年6月16日
・親子
人の親というのは常に罪なものなのではないか。大半のケースにおいて、自分たちが欲しいと思い、その結果作られるのが子どもなわけであって、社会的な要請がそこに入り込むとしても、結局、子どもというのは「親たちの事情で『作られる』」ものだということは、直視するべきではないだろうか。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2015年11月10日
子どもが生まれてくることを望み得ない以上、どうしても子どもを作ること、子どもを持つことは親(と社会)の欲求・欲望に基づくものであるわけです。しかし、当の親は社会化の力により、子どもを持つことは正しいことであり、その正しさは自身だけでなく、子どもにも及ぶと盲信しているのです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年7月2日
それだけならまだしも、親(と社会)の欲求・欲望を満たす道具として作られる子どもは、社会化の力により、(自身の選択の結果生まれい出たわけでもないのに)自分を産んだ親に感謝し、愛すること、生に価値のあること等を刷り込まれ、それらが所与のものであるように振舞うよう調律されるのです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年7月2日
そして、そのような社会化を経た人間は、子どもを作ることは正しいという盲信へと至るという循環、つまりは再生産の構造を担うに至り、その構造を強化し続けるわけですね。そのような複雑でもなんでもない社会構造が所与のものとして思考の対象とならない社会は、非常にグロテスクに見えてなりません。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年7月2日
*関連記事
大変多くの人が大層信仰している「親子の無償の愛」などというものも、子どもが生まれる時点で、それは親の「子どもを持ちたい」という欲求の充足の結果であり、目的達成の手段以外の何物でもないこと等々を考えれば、怪しいものですよ。親子においてさえそうなのですから、他の人間関係は・・・。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月5日
→「世間体のため」などでなくとも、「この人との子どもが欲しい」という場合でさえ、子どもは欲望の充足手段になっている。
「○○のため」という論理であれば、須らく欲望の充足手段である。
「子どもが欲しい(から子どもが欲しい)」という単純そうに見える思考でも、結局は「子どもが欲しいがために、子どもが欲しい(作る)」わけで、やはり欲望の充足手段であることからは逃れられない。
「産んでくれてありがとう」とか、「生まれてきた喜び」とかいう「思想」も非常に可笑しいですよね。生まれてきたことは自分の選択ではない上に、生まれてこなければ、その認識主体がそもそも存在に至らないのだから、自分が生まれてこない場合の自分を想定し得ないのですから。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年4月5日
そんなものは、社会が必要性から生み出した物語(神話、共同幻想、規範)でしかないんですよねぇ。だからこそ大半の人間は疑問をもたないし、「素晴らしい話」になるわけです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年4月5日
「育ててくれてありがとう」というのも「思想」くさいんですよねぇ。もちろん、今の自分に至るまで様々な資源が投下されているわけで、それに感謝するというなら理解はできますが、今こうして世界を認識する自分以外の主体は存在し得ないわけで、それを想定しての感謝というのは可笑しいのでは。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年4月5日
—–17/08/05:追記—–
最近になって初めて堀江貴文氏(ホリエモン)の著作を読んでいるのですが、本という媒体では(尚更)言いにくい(言わないように圧力がかかる)ことを臆せずにきちんと言っている辺りに非常に好感が持てます。 「当たり前のことを当たり前に語る本」にこそ、価値があるのです。
さて、そんなホリエモンの本の1つ、『君がオヤジになる前に』では、子供や家族についての世間の価値観に疑問を投げかけています。
子どもに尽くす家庭的な人生が幸せだなんて、ただの思い込みだろう。
幸福の主体は、自分自身に拠らせるべきだ。
・親を大事に、妻を大事に、子どもを大事に生きるのが正しいと考えている。
はっきり言うが、そのモラルは、危険だ。
(中略)
そのモラルが何をもたらしてくれるのか、ちゃんと自分の頭で考えもせず、無条件で受容する生き方に意味はないし、現実にモラルハザードは起きているのだ。
モラルを貫き通して死んでも、誰もたいして褒めてくれないだろう。「あの人は真面目だった」と、個人を偲んでもらっておしまいだ。
それよりモラルの外に出て、自分は何をしたいのか?どう生きたいのか?を必死に考える人生の方が、僕は幸福だと信じている。
私がこの項目で挙げた内容は、どちらかと言うと「子ども側」からの視点から、世間の「親子」というものが如何に社会的物語に規定されているかを提起するものでしたが、上記のようなホリエモンの文章は、「大人側」の視点から社会的な物語の存在を指摘し、そこからの脱却を提唱するものになっています。そちらの方が理解しやすい人も多いでしょうから、一読をお勧めします。
——————————-
・結婚
「お一人様の行く末は孤独死」 → 「だから結婚はした方がいい」というような話を聞く度に、「それはつまり、人を”目的達成のための手段”とすることを良しとする、ということだよね。まぁ、結婚が大半の人において目的達成手段になっているのは、昔からのことか」と考えてしまいます。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月5日
まぁ、結婚に限らず、対人要素が絡む大半の事柄で人は目的達成の手段とされているわけですが、僕が気になるのは、それをマスメディア等が公言することに、何ら反応がない(人が大半)ということなんですよ。その内容を人々が理解するだけの知性があれば、社会という共同幻想は崩壊するのでは。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月5日
結局、誰もが誰かの手段とされているわけで、某大物哲学者が語ったことなど、この世界ではまったくもって夢物語でしかないということですよ。ただ、人々がその現状を見ないだけ。各人には他者の手段としての価値以外の価値があり、それが真の価値だと盲信しているだけ。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月5日
*「某大物哲学者」=カント
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恋愛や結婚を他者に強要する人に、「恋愛や結婚というのは、他者を手段(道具)として扱う典型的な行為ですが、そのあたりを認識したうえで強要しているんですよね?」と言って回りたい(しないけど
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年8月9日
「寂しいから」と言う場合には、他者は自分の寂しさを解消する手段になり、「周りがそうしているから」と言う場合には、他者は自尊心を満たしたり、同調圧力に適応するための手段となる。
「一緒にいたいから」と言う場合にさえ、他者はその欲求を満たす手段となっているのですよ。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年8月9日
このように「他者を手段(道具)として扱う」ことを認識しており、それを良しとしたうえで人に強要するならいいのですが、大抵の人は、良し悪しの判断以前の認識にすら至っていないように見えます。
これぞまさに、社会的物語がなせる業、といったところでしょうか。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年8月9日
社会にとっての必要性から作られる物語が無思考で受け入れてこそ社会は成り立つのでしょうが、それは必然的に制度として固定化されるに至るわけで、いつの間にか人が社会のために存在するようになってしまうのでしょう。
そら恐ろしいことです。僕の勘違いであってほしいくらいに。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年8月9日
・労働
およそ労働というのは、大半の人にとって手段に他ならないはずなのに、社会制度維持の要請による社会化(文化化)を経て、そのことが見えなくなっているのではないか。人生を労働を軸にして考え、それに疑問を持たない者は、社会共同体に生産される人形に近しいのではないだろうか。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2015年10月30日
なぜ働かなければならないのかといえば、やはり主には、生きていくにあたって発生する諸費用を賄うためなわけですよ。ならば、諸費用を賄えれば働かなくていいわけで。であれば、働かなくても済むだけの財産を築くことを最短化するよう、労働について考えるのは如何でしょうか。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2015年10月30日
*「労働」に対し、実際にそのように考える人もいる(特にアメリカなどには多い)でしょうが、そのように考える人“も”いるということは、すなわち労働自体に価値を持たせる“お話”は普遍且つ不変のものではない=社会的物語でしかない、といことの証左になるのです。
労働を通じての生き甲斐の創造、社会への貢献、自身の成長などという言説も、社会が必要性から作りだした神話(共同幻想)にしか思えない。労働が各人の生活において圧倒的な比重を占める現体制下では、達成手段が労働にこそあるように見えるだけで、本来労働に限定されるようなものではないでしょう。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年2月4日
そのような環境においては、個人の尊重や多文化主義などという言説、思想もまた、虚構に過ぎない。社会的再生産過程の一部にせんと個人を社会化し、社会に組み込めば、その時点で個人は代替可能な部品に成っているのであって、個性などいうものは理想、空想に過ぎないのです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年2月4日
週5日も働き、その5日間は仕事以外の活動がほぼ出来ないのが「普通」という社会は、とても知性有りしヒトの世界とは思えない。
そんなんだから行き詰まっているんじゃないんてすかねぇ・・・。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年5月28日
もっと諸活動が自由に出来れば、能力を十二分に発揮したり、秘めたる(=秘めさせられていた)才能を伸ばしたり、人生に(より)喜びを感じたりすることが可能な人はいくらでもいるだろうに・・・。
およそ今の(日本)社会は、「社会にヒトが消費されている」ようにしか見えない。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年5月28日
そりゃ、停滞もするでしょ。当たり前でしょ。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年5月28日
「働きたくない。故に働かない」という人は、既に十分な資産を有していない限り死ぬしかないという社会って、果たして「基本的人権」や「多様性」が認められている社会と言えるんですかねぇ。
結局は、それらも社会的必要性から作り上げられた物語"でしかない"ということでは?— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年6月4日
「そんな奴らに『基本的人権』や『多様性』を認めていたら、社会が崩壊してしまう」って?
そりゃそうですよ。そうならないための社会的物語なのですから。
ただ、「社会」の維持が何よりも大切だというその考えはは、果たして「『あなたの』思考の帰結」なんですかね? 本当にそうなんですか?— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年6月4日
もしそうだとしたら、あなたが「社会にとって」価値ある存在でなくなったら、排除されても仕方ない、喜んで死ぬと、そういうわけですよね?
・・・え? そうでなければおかしいですよね? まさか、「自分だけは例外」というわけではないですよね?— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年6月4日