「同性との性行為」に拒否感を持つことの不思議

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●前提
・著者は男
・同性との性行為の経験あり(つまり男同士)
・性同一性障害などでは(おそらく)ない。
 初の性行為の相手は女性で、女性相手の性行為の方がはるかに回数が多い。

 近年、「恋愛対象が同性の人」が社会に受け入れられ始めてきて、少なくとも「いないもの」と見なされたり、「いてはならないもの」として扱われたりということは減ってきたように見えますが、それでもなお、同性との性行為に拒否感を持つ人は多いように思います。

 特に、“自分が”同性と性行為をすることに関しては強い拒否感を持つ人が多いのではないでしょうか。

 
 しかし、私にはそれが不思議で仕方ないのです。 

 
 なぜ、性行為の相手が“異性でなければならない”のでしょう。

 
 “子どもを作るための生殖行為”であれば、少なくとも現状では、異性が相手の方がいいでしょう。
 生物学的に考えても、それが自然でもあります。

 
 しかし、生殖行為として行うわけではない性行為であれば、相手が同性であろうと異性であろうと関係ないのでは?

 
 にも関わらず、“自分が”同性と性行為をすることに強い拒否感を持つ人は、一体何をどう以って、そうなっているのでしょう。

 「生殖」との結びつきが強くなければ、性行為ができないのでしょうか。
 「恋愛」との結びつきが強くなければ、性行為ができないのでしょうか。

 そうだとすれば、あまりに知能程度が低いというか、文化程度が低いというか……まぁ、あまりに動物的で、およそ“知性有しヒト”には見えないなぁ、と思ってしまいます。
 “大脳が肥大化しただけの猿”のようにも見えますね。

 

 ただ、実際のところは単に、社会化の過程で性行為の相手は異性であると刷り込まれて、それが“所与のもの”となってしまっている人が多い、ということが大きいのかと思います。

 そして、その社会化の背後(前提)には、「恋愛(そして結婚)に価値がある」という、社会がその必要性から作り出さざるを得なかった物語があるのでしょう。(この物語の力は徐々に弱まってきていますが)

 
 つまり、所与のものとして思考の対象にならず、その上で、社会的には決して(次世代の生産という点において)望ましくはないであるがためにマイナスイメージが刷り込まれることで、同性同士の性行為に拒否感を持つ人が多くなっているのではないかと、私は考えるのです。

 

 かつては日本には「男色」(女色)という文化(?)があり、同様の文化(?)は世界中にあったはずです。

 しかし、いつしか“社会自体”が価値を持ち始め、それを維持・発展させるべく人口を維持・増加させることを“社会を構成する人に”要求する度合いが強くなっていったのではないでしょうか。
 そして、そのような流れによって同性との性行為は言わばタブー視され、それが現代でも残っているのではないでしょうか。

 まぁ、このあたりのことは調べればすぐに資料が見つかるかもしれませんが、私は研究者ではありませんし、それほど興味もないのでやめておきます。(大体は合っているでしょうし)

 
 それよりも、私がこの記事で言いたいことというのは、

 「なぜ同性との性行為に拒否感を持っているの? それはあなたの“思考の帰結”なの?」

 ということです。

 もしそれがあなたの思考の帰結でなければ、それはそれは恐ろしいことではないでしょうか。

(言語の習得・運用の時点で社会化の影響は避けられないので、その言語を元にした「思考」がどれだけ「社会」から逃れられるかには、疑問が残りますが)

 
 「そんなの異性との性行為が“普通”で、同性との性行為が“異常”だからだよ。それが私の思考の帰結だ」と言う方はいないですよね?

 さすがに、ここまで読んでくださった方の中にはいないと思いますが……
 もしいれば、まぁ……頑張って生きてください。 

 恋愛し、結婚し、子どもを持ち、車を買い、家を買い、仕事に励み、一社に勤め上げ、親族との付き合いを大切にし、子どもを立派に育て上げ、親の老後の面倒をちゃんと見て、そして、同じことを子どもにもさせてください。

 ……できるはずですし、そうしたいですよね?
 頑張ってください。 
 


*この記事は、「twitterでのツイートなどを元にブログ記事を作成しよう」という経済的な思考と、「2017年中に、ブログ記事として書けることは書いてしまおう」という考えの下に作成しました。

*ちなみに、相手が必要な性交に生じる“手間やリスク”を引き受ける価値を認められないため、私はもう何年も“いわゆる”性行為はしていません。


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