「反出生主義」について

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 先日twitterにて、「反出生主義」という用語を初めて知りました。
 そこで得た簡単な情報によれば、反出生主義とは、「子供を持つ事に対して否定的な意見を持つ立場」なようで、この内容だけ見れば、私の思想モドキの一部も反出生主義に当てはまりそうです。

 ただ、さすがにこれだけでは反出生主義についての情報は不足していると言わざるを得ない。
 そのため、この記事にて、「反出生主義とは何ぞや?」を確認し、私見などを加えたうえで、私の思想モドキとの関連についても検討したいと思います。


 
 Wikipedia(日本語)によれば、「反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、Antinatalism)とは、子供を持つ事に対して否定的な意見を持つ哲学的な立場である アルトゥル・ショーペンハウアーやエミール・シオラン、デイヴィッド・ベネターらが反出生主義の擁護者として知られている。」となっています。

 まぁ、文字通りですね。”Antinatalism” も、anti(反) + natal(出生、出産の) + ism(主義)という造語でしょうから、日本語訳との間にそれほど齟齬はないでしょう。

 なお、日本語のページを見る限りは、子どもを持つことを否定的に考える「理由」は様々であって、特定の思考から成る主義ではないと考えられます。

 しかし、英語のページを見ると、
 Antinatalism, or anti-natalism, is a philosophical stance that assigns a negative value to birth. The term “antinatalism” is in opposition to the term “natalism” or “pro-natalism”. Antinatalists argue that people should refrain from procreation because it is immoral. Since antiquity, in scholarly and in literary writings, various ethical foundations have been adduced for this conclusion.
 とあります。(*下線部は本記事著者によるもの)

 下線部の内容を踏まえれば、「反出生主義」と”Antinatalism”が指すものに違いがない限りは、「子どもを持つことは『非道徳的』であるという理由から出生の価値を否定する立場」が反出生主義であると考えた方がよさそうですね。(そうでないと、似た主義・思想と区別が付かず、意義がなくなる)

 ただ、何をもって「非道徳的」(非倫理的)であるとするかは、やはり反出生主義内でも様々なようです。
 日本語英語のWikipediaのページや、反出生主義を掲げるイギリスの政党ANPのHPなどを見る限りでは、まず、「生まれてくる子どもからの視点」と、「環境、他生物からの視点」に分かれており、前者がメインとなっているように思われます。

 後者については容易に想像できるでしょう。要は、「人間という存在は地球にとって害である」という話です。

 メインの前者(「生まれてくる子どもからの視点」)については、大まかには以下のような考えに分けられそうです。
 (英文は意訳したものが多く、私が訳し間違っている可能性もあるため、原文も確認することをお勧めします)

■この世は不幸、苦しみ、災難に満ちている → だから子どもを生むことは反道徳的行為である
 ―Arthur Schopenhauer、Peter Wessel Zapffe など

 ・人生における良いことは、悪いことを補うものではない。最高に良いことであっても、痛みや病気、死などは補えない。
  ―Karim Akerma など

 ・great harm is not at stake if no action is taken.
  the imposed condition cannot be escaped without high costs (suicide is often a physically, emotionally, and morally excruciating option).
  
―Seana Shiffrin

 

■Negative ethics(負の功利主義)
 苦しみを最小化することには、幸福を最大化することよりも道徳的な重要性がある。
 子供が多かれ少なかれ不幸になる可能性を確実に排除することができない限り、子どもを生まないことが優先されるべきである。
 ―Hermann Vetter

  ・不必要な喜びが存在するより、不必要な苦しみを経験しない方が良い。
   ―ANP

 

■我々は生まれてくる子どもの同意を得られない。子供は痛みと死を避けるために生まれてくる事を望んでいないかも知れない。我々は、生まれてくる本人の同意なしに出産を通じて他人の人生に影響を与える道徳的な権利を持っていない。
 ―Julio Cabrera、Gerald Harrison、Julia Tannerなど

 

■子どもを生むことは、生む側の欲求を満たすために引き起こされている現象である。
 ―David Benatar

 

■人口が多いほど、あらゆる種類の不幸の犠牲者が増えるため、出産を控えるべき。
 倫理上重要なことは、その被害者の数を最小限に抑えることであり、被害者が少なくなるように行動すべきである。
 ―Miguel Steiner

 

■Asymmetry between pleasure and pain(喜びと苦痛の非対称性)
 生まれてくることは、苦痛と喜びを作り出す。生れてこなければ、苦痛も喜びもない。苦痛がないことは良いことだし、喜びがないことは悪いことではない。したがって、倫理的な選択では、子どもを生まないことが重視される。
 ・生まれてこない場合には、喜びがないのは悪いことではない。なぜなら、喜びを奪われる主体が存在していないのだから。
 ―David Benatar


 さて、以上のような理由から子どもを持つことは非道徳的、非倫理的とする立場が「反出生主義」のようですが、「以上の内容全てを論理的に否定することはできない」と私は思います
 特に、「我々は生まれてくる子どもの同意を得られない」「生れてこなければ、苦痛も喜びもない」「生まれてこない場合には、喜びがないのは悪いことではない。なぜなら、喜びを奪われる主体が存在していないのだから」といった点は、”それ自体を”論理的に否定するのはかなり難しいでしょう。そのため、それを元にした考えも完全に否定することは困難になり、だからこそ、現在までこの「反出生主義」は消えずに残っているのです。

 しかし、現実にはこの「反出生主義」のような考えは広く受け入れられているわけではありませんよね? それはなぜでしょうか?

 もちろん、私が気付かないような論理的な間違いがあるのかもしれません。しかし、主な理由は、それが社会の維持にとって「害」となる考えだからでしょう。実に単純なことです。

 人は社会を作る際、予見可能性を確保するために、社会的な物語(規範)を作り上げます。(そうしないと、他人の行動が予測できないため、共同生活など送れないですし、価値観の共有がなければ集まって暮らすこと自体容易ではありませんからね。なお、「物語」と言うのは、それが人が作る「作り話、作り物」にすぎないためです。)
 しかし、その社会的な物語の下で(広義の)社会化が行われて世代が更新されていくと、そのような物語は”所与”のものとなり、その意義や意味を考えることがなくなっていきます。「当たり前」を通り越して、「前提」となって認識自体ができなくなるわけです。
 そして、そのような社会的な物語の下で世代が更新され続けることで、いつしか人は(根底にある物語の存在を認識できないために)社会の価値を疑わなくなり、(社会的物語に操られるままに)社会の維持のために行動するようになります。現に皆さんのうちにどれだけ、”この”(現在自分が存在している)社会の価値を考えたことがある人がいるでしょうか。この社会の存在を「前提」として、様々な思考、活動をしているのではないでしょうか?

 こうなってしまうと、”この”社会において「害」となるものは、”必然的に”排除されます。(ただ、現在はこの社会的物語の力が急激に弱まってきています。おそらく、ネットの普及などにより、画一的な社会化が難しくなったためでしょう。)

 しかしそれは、”特定の社会にとって”間違っていることは保証できても、そこから離れてなお正しさを否定できるものではありません。
 このことを意識したうえで、今一度「反出生主義」について考えてみれば、「反出生主義」への評価が変わる人も多いのではないでしょうか。


 さて、以上の社会的物語云々の話は、「生きるのが辛い」人へ の記事にまとめていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいと思いますが、以下では、私の思想モドキのうち「反出生主義」に関連するものを取り出し、私のそれが「反出生主義」と言うに足りるかを確認したいと思います。
 長くはかかりませんので、もう少しだけお付き合いください。

 →「子どもを生むことは、生む側の欲求を満たすために引き起こされている現象である」、「我々は生まれてくる子どもの同意を得られない。」といった内容に相当しそうです。

 

 →この時点で、上記の「反出生主義」とは離れてしまっていますね。
 私が子どもを持つことに否定的なのは、子どもが作られ社会が維持されていく、その「構造」が(社会が)人形を生産するもののようにしか見えず、その構造自体を否定的に捉えているため、ということなのだと思います。
 もちろん、そのような(とても知性有し存在で構築されているようには見えない)社会で生きる子どもは果たして幸せだろうか、といった思考もないわけではないですが、生まれてくる子どものことを考えてというよりは、要は、子どもが作られ社会が維持されていく構造に”私が”組み込まれたくない、という考えの下、”自分が”子どもを持つことに否定的なわけです

 

 
 

 

 …やはり、重なるところは多くても、「反出生主義」の範疇には入らないのかもしれませんね。
 基本的には「子どものため」という視点ではないですし、かといって環境云々の話でもありません。
 「ヒト」という存在への期待と、それが裏切られている現状、そして、社会の構造への嫌悪感の下で思考をしているのであって、人類のことをよく考えて「反出生主義」を名乗っている人にとっては、(敵にはならなくとも)邪魔者になる可能性さえあります。

 …まぁ、考えが根本の部分で異なる以上、「反出生主義」の展開、発展の助力となることもできないでしょうし、むしろ「お断り」されるでしょうから、今後は”応援”の立場を採っていきたいと思います。
 私の考え及ぶ限りでは「反出生主義」は「完全に否定しようがない」ものですし、結論自体は私の考えと同じわけですからね。 

 頑張れ、反出生主義!



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「「反出生主義」について」への1件のフィードバック

  1. 私は今まで反出生主義を掲げてきましたがここまで深く思考したことはありませんでした、単純に自分の境遇から生まれてきた人間は必ずしも皆幸福になれる訳では無い、少しでも不幸になる可能性があるなら産まない方がいいという考えでした。このブログを読み、人形の再生産、人への期待に対する裏切り、なるほどと思いました、私も筆者と同じ気持ちです。人々が欺瞞から目を覚ますよう願います。

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