この記事は、「生きるのが辛い」と思い、“悩んでいる”人へ向けたものです。
世の中には「生きるのが辛い」と思い、悩んでいる人が確かにいると思われます。
そして、そのような人の多くは、(自分で悩み)考えるだけでなく、いわゆる自己啓発の書籍を読んだり、セミナーに参加したり、あるいは精神科やセラピーに通ったりして、「生きることは素晴らしい」「生きることは楽しい」という考えを持てるようになろう、と“努力”をしていることでしょう。
それで期待通り、「生きることは素晴らしい」「生きることは楽しい」と考えるに至り、日々の生活を送れるのであれば、特に私から言うこともありません(思うところはあっても、別に何も言いません)。
ただ、あなたがこの記事を読んでいるということは、その願いは達せられていないのではないでしょうか。あるいは、自己啓発やセラピー等で、本当に変われるのかと疑問に思っているのではないでしょうか。
だとしたら、このままこの記事を読んでみてください。そうでなければ、ここで読むのをやめましょう(忠告しましたからね)。
というのも、以下で私が述べることは、「生きることは素晴らしい」「生きることは楽しい」ということをあなたに理解してもらおう、というものでは“ない”からです。
私はあなたに、「生きろ」とも「生きるのは素晴らしい」とも言ったりしません。
“言ってあげない”のではありません。私自身が「生きたい!」とも「生きるのって素晴らしいことだ!」などと思っていないのです。
しかし、同時に「生きるのが辛い」とも思っていません。
実際、過去においては、生きるのが辛くて死にたくなる時期が何度かありましたが、(自分が)正しいと思う思考を積み重ねていくうちに、ある時期から、そのような思いは一切なくなりました。
「生きるのは素晴らしくも楽しくもないけれど、辛くもない」という状態なのです。
こう書くと過渡期にあるように見えるかもしれませんが、私はここが“私の”最終地点だと思っています。
私なりの“思考の帰結”がここだからです。
ただ、あなたがその先を望むのであれば、進めばよいかと思います。
私が私以外の人に出来ることがあるとすれば、「生きるのが辛い」から「生きることは素晴らしい、楽しい」へと、“一気に”飛ぶことができない人に対し、「ここを中継地点にしたらどうですか? こっち、こっちですよ」と呼びかけることだけです。
しかし、その中継地点から、「生きることは素晴らしい、楽しい」へと飛べるかは保証しかねますし、そこがクリーンであり、無害な地点であることも保証できません。
それでも構わないという人だけがお進みください。
前置きが長くなってしまいましたが、もう1つだけ。
ここから先は、私が普段twitterに垂れ流している思想モドキ(思考ではあっても果たして思想と言えるだろうかという思いがある)に補足を加えていく形で進めていきます。
これは、一からこのようなテーマの文を書くのは難しいためです。ご了承ください。
さて、「生きるのが辛い」と感じ、悩む人は、まず、“期待しすぎ”なのではないでしょうか。
自分に、他人に、社会に、そして人間に。
いや、期待というより、夢を見過ぎており、夢の中にいることに気付いていないのでは、と言うべきでしょうか。
比較的分かりやすく、且つ「人生」において重要そうに見える、「人」について考えてみましょう。
(記事の後半(次ページ)では、「親子」、「結婚」、「労働」なども取り上げています。「人」について(だけ)では分かりにくいようでしたら、そちらもどうぞ)
人は親の細胞の組み合わせで生まれる+与えられた言語を習得する+集団内で社会化される+あらゆる情報のやり取りで相互にオーバーライトされる→あらゆる人は有限の組み合わせの一つでしかない
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2014年11月2日
*「社会化」という用語は、この後も出てくるので、補足しておきます。
「人間が、集団や社会の容認する行動様式を取り入れることによって、その集団や社会に適応することを学ぶ過程をいう。社会化は、基本的には学習である。諸個人は、他の人々との相互作用を通して、行動の仕方、ものの考え方、または感情の表出や統制の仕方を学習するが、このような社会的場面における学習の過程を社会化というのである」『日本大百科全書』
個人的に付け加えたいのは、社会化の過程(の大半)は、所与(“前提”、“自明”のものとして“既に存在している”)ものが“与えられる”過程であるということです。
(「所与のものが与えられる」ことで“人間”は“作られる”という点に何も感じないこともまた、社会化の影響)
僕もあなたも、組み合わせが違うだけなんですよ。それ以外に相違点などない。アイデンティティーなんてものは、ただその脆い一点にしかないはずなんですよ。
— 佐FRAN (@F_Sano_) 2014年11月2日
皆さん、人のことを気にしすぎじゃないですかね。自分でない以上、自分以外はすべて”他人”ですし、生物学的なものを含め、自分を構成する情報の組み合わせが違う以上、誰もが自分とはまったくの”別物”ですし、それ以前に、他者など全て幻影かもしれないのにね。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月19日
ポイントは、所詮人など、(生物学的なものを含めた)あらゆる情報の組み合わせで“しかない”ということです。
私もあなたも、特定の情報の組み合わせの“結果物”でしかなく、その組み合わせの違いにしか、「私」と「あなた」を分ける要素は存在しないのです。
(この時点で何を言っているか分かれば、以下の破線部は飛ばして構いません)
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例えば、(現在よりもずっと科学技術等が発展した未来、あるいはそのような別世界において、)完全に遺伝子をコントロールしてヒトを作り出せるとします。さらに、特定人物がこれまで歩んできた人生における、全ての環境をそのまま“物理的に”再現できる機械もあるとします。
そのような再現世界に、あなたと全く同じ遺伝子を持った受精卵が瞬時に転送されます。
あなたの母親と全く同じ生物学的条件を持ち、全く同じ経験情報に基づいて行動し、全く同じ諸々の情報を重ねていく母親のお腹の中で、その受精卵は分裂し、胎児となり、あなたが生れた時と全く同じ条件で、その子どもは生まれます。
そして、その子どもは、あなたが実際に経験したものと物理的に全く同じ環境において育てられ、育ちます。もちろん、その子どもだけでなく、全ての人間が、あなたが存在した世界でのそれと全く同じ情報を重ねて生れ、成長し、動いています(そのようにしか知覚できない)。
さて、そのような再現世界において、あなたと全く同じ情報を重ねた人物は、あなたと“違う”存在でしょうか。あなたとどこか違いますか?
単純に生物学的な情報が同じというだけでなく、その他全ての情報の積み重ねが同じなのです。当然、その人物の内にある人格等も、同じように発現していると考えられるでしょう。それでも、その存在は、あなたではないのでしょうか。
また、仮にあなたが、「そいつは自分ではない」と思ったとしても、別の人間はどのように捉えるのでしょうか。あなたと全く同じ情報を持つ存在を目にして、果たして“別の人物”と捉えるのでしょうか。
このような状況を想定したとき、その再現世界で育った人物は、“同一人物である”と私は考えます。
また、仮に自分はそう考えない場合でも、別の人間からすれば同一人物であると、多くの人は考えるのではないでしょうか。
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これが、人はあらゆる情報の組み合わせで“しかない”ということです。
そして、人は再現が可能な存在であり、“有限の組み合わせ”の結果でしかないということです。
あなたという存在は、原理的には再現できるのです。作れるのです。
もちろん、あなただけではありません。全ての人間は、再現可能な、有限の組み合わせでしかないのです。
果たしてそこに、確固たる特有独自な存在などあり得るのでしょうか。
——17/06/13:追加——
酔っ払って知能が低下しているからかもしれないけど、世の中には(他)人に価値を認め過ぎている人があまりに多くて気味が悪く感じる。
自分含め、どいつもこいつも、様々なレベルの情報の集合体でしかなく、原理的に再現可能なのだから、”要素”としてのみ見るのが”普通”なのでは?— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年5月31日
そこにそれ以上の価値を認めるのが”普通”であるとすることは、およそ社会的物語性の仲をただただ漂っているだけにしか思えない。
自分も他人任せもただの情報の組み合わせの(再現可能な)”結果物”でしかない。確率論的な価値はあっても、それ以外の価値など存在し得ない。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年5月31日
*「社会的物語性」→「社会的物語」、「仲を」→「中を」、「他人任せ」→「他人」
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人というのは、その程度のものだというのが私の認識です。
人それ自体がただそれだけで特別な存在である、というのは、社会が必要性から生み出した“夢”でしかないのです。
(この“夢”のことを、私は「社会的物語」と呼んでいます)
皆でみる幻想でしかないのです。
そんなものを気に病んだり、そんなものに思考のリソースを割くのは、非常にバカらしいのではないでしょうか。
あなたは再現可能な、有限の組み合わせの結果でしかないのですから、自分に特別な意味を求めて悩む必要などないのです。
同時に、有限の情報の組み合わせの結果が「あなた」なのですから、これから積み重ねる情報の組み合わせの選択によって、「あなた」自身は「あなた」が作れるはずです。
—–17/03/14:追記——
また、現在までの情報の組み合わせの結果物が「あなた」なのであり、それ以外の組み合わせの結果物は「あなた」ではありません。分かりやすく言えば、「今の自分」以外は「自分」でさえないのです。
そのため、「あの時こうすればよかった」と嘆いても、「その時そうした」人物はもはや、現在そのように思考するあなたとは別の存在でしかないわけですから、それは無意味な思考でしかないでしょう。
過去(の経験)から学ぶことは重要でしょうが、過去を悔み苦しむことは、全く意味のないことなのです。それにも関わらず多くの人がそのような状態に陥るのは、そのような人はおよそ、社会的物語の中をただただ漂わされ、思索をする機会と機能が奪われているためではないかと、私は思います。
後悔はいらず、必要なのはただ、世間一般に「失敗」と捉えられるものを「道具」として“活用”することのみなのではないでしょうか。
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そして、他人も再現可能な、有限の組み合わせの結果でしかないのですから、どんな人物のどんな行動も、いちいち気にする必要などありません。全く別の存在が、情報の組み合わせの結果として動き回っているだけです。放っておきましょう。
(あなたが)おかしな行動をとっている(と感じる)個体は、何かしら(生物学的なものを含む)情報の組み合わせに(あなたが思う)不良があるために、“必然的に”そのような行動をとっているのです。情報の組み合わせの結果として必然的に発生する行動以外のものをそれに求めるのは、(基本的には)無意味でしょう。
そんなことをするよりは、犬が多少吠えていてもいちいち怒ったりはしないのと同じように、その存在に対し「そんなものだ。気にするようなことじゃない」と考えるか、情報の組み合わせのパターンを把握して、自分が望む行動をするように“誘導”する(情報の組み合わせを変えることで行動を変えるのではなく、その組み合わせを前提にする)べきです。
なお、これは世間一般で言う「自分」と「他人」以外の存在にも(当然)当てはまります。
親兄弟も、配偶者も、友人も、恋人も、です。例外はあり得ません。彼ら彼女らとて、再現可能な、有限の組み合わせの結果物でしかないのです。
そして、結局は、彼ら彼女らも、「他人」でしかないのです。
自分以外の者というのは、恋人でも配偶者でも、親兄弟でも、自分ではない以上他人でしかないのです。ただ、社会的な物語がその間を満たしているにすぎず、規範(空想)的な関係しかそこには存在しない。盲信が作り上げる優しい世界に安住しない限り、誰も誰のモノにもなり得ないのです。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年6月1日
要は、「他人ではない人」とは、社会的要請から生み出される規範によって各人が作り上げ、規範順守による社会的な称賛によりその規範が強化され続ける一過程として、今面前に「作り」「作られた」存在でしかないのです。根本的には、宗教信仰によって神を信じるに至ることと変わらないですよ。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年6月1日
社会的なものはおよそ、その必要性から「作られる」ものであって、必要とする以前から自然に発生しているわけではないのです。そして、その必要性自体が認識され続けることは、様々な社会的コスト、リスクを発生させるため、「社会化」などの作用により、「所与のもの」と刷り込まれるわけですね。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年6月26日
ちょっと内容が分かりにくいかもしれませんね。
既に述べた「社会的物語」という考え(=社会的な必要性から生み出した“夢”=皆でみる幻想)も出てきています。
まず、先ほどまで述べていたように、人はあらゆる情報の組み合わせの結果物でしかないと考えれば、その情報の組みせが違う者は、当然の帰結として、他人になります。
「情報の組み合わせが近ければ他人ではない」と思う方もいるかもしれません。
しかし、世間一般での「赤の他人」にも、遺伝子情報や思想が近い人は確実におり、そのような人物に会った時、果たして、親兄弟などと同じ意味で、「他人ではない」と思うでしょうか。「情報の組み合わせが近ければ他人ではない」という論理では、そう思わなければおかしいはずです(また、家族・親族と捉えられる等親数は、時代・文化により異なる以上、血縁を以って「他人」ではないと判断するのは、夢を見すぎです)。
というわけで、自分以外は全て他人である以上、彼ら彼女らの存在、振舞いについても、既に述べた他人のそれへの考え方を当てはめればいいわけです。
また、多くの人は現に、親兄弟や、友人、配偶者、恋人といった存在に対し、特別な“意味”を感じていると思いますが、その“意味”は、“作りもの”(=物語)でしかないということです。人が作り出す前に、そのような意味が存在していたわけではないのです。
特別な“意味”を持つと(一般的には)思われている人物との関係によって、あなたの人生が「辛い」ものになっているのであれば、基本的には、あなたはその「特別な“意味”という物語」の中で苦しんでいるということです。
それが物語の中での出来事であると認識すれば、「特別な“意味”を持つ人物であるが故に生じる問題」というものは消え失せ、「自分」と「他人」の問題に変わるのです。
ちなみに、これはあなたが彼ら彼女らに特別な意味を“現に感じている”ことと矛盾しません。そのような文化(人による創作物)を持っているからそのように感じているだけであり、そのことが、その文化性(作りものであること、物語性)を否定するわけではないのです。
友人、仲間、家族、恋、愛・・・。それらは全て、社会が必要性に駆られて作り出し、社会化の過程を以て植え付け、受け続けられてきた”物語”でしかないのでは。宗教的教義が世界において真実であるように、真実であったように。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月19日
その社会的な物語が真実であると誰が保証してくれるのでしょうか。それを保証してくれるモノは何によって、その正しさを保証されるのでしょうか。神を携えるいくつもの宗教から人心が離れていくのは何故でしょうか。あなたが漂う物語は、何者が作り、何者が信じ、何者が壊すのでしょうか。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月19日
・・・そんなふうに他者の存在や社会規範を考えられれば、それらに思い煩うこともかなり減るのではないでしょうか。
逸脱に対するサンクションがあっても、その背後にあるのは少なくとも自分は共有化していない”物語”でしかないのですから、その正当性は少なくとも自分には及ばないのです。— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月19日
結局、この社会で皆が共有させられ、共有している”物語”など、消され、消されつつある宗教の教義世界と本質は全く同じなのです。そこに絶対的な正しさを信じて疑わないのは、盲信以外の何物でもない。変えられ、変わり、消され、消えるまで気付かないのでは、ただのマシンでしかないのでは。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月19日
このような「社会的物語」という視点を持って世界を見れば、「生きるのが辛い」という状況はほとんど“無くなる”かと思います。
なぜなら、あなたが苦しみ悩むことは、大抵は社会的物語との不一致から来るものだからです。
“生きることは良い”という大半の人は疑いもしない価値観さえ、社会的な物語(共有され、信仰される”作り話”)にすぎない。特定の宗教、イデオロギー、国家、体制等のために喜んで死ぬ人がいる以上、その価値観も普遍且つ不変なものではなく、物語の1つでしかないということは明らかでしょう。
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2017年2月1日
「生きることは良い」ということでさえ、社会的な物語にすぎないのです。必要性から社会が作り出した、言わば“教義”でしかないのです。
「勤勉であるべし」「学業、労働に精を出すべし」「恋愛は素晴らしい」「『大人』になれば、家庭を持ち、子どもを持つべきである、自分の家を買うべきである」「素敵な物を沢山買って楽しみましょう。素敵な服を買いましょう。カッコいい車を買いましょう。最新の家電を買いましょう。素敵な物に囲まれた、素敵な生活を送りましょう」「人を傷つけてはならない」「隣人を愛せよ」「親兄弟を大切にせよ」……
どれもこれも、社会的な物語にすぎないのです。
そして、ある価値観等が社会的な物語であるか否かは、時代や地域、状況によって変わるか否かで判断できます。言い換えば、それが「普遍かつ不変」であるか、ということです。
例えば、労働の必要が限りなく減少した(あるいは全くなくなった)社会においても、「労働は尊い」といった“お話”が、当然のものとして社会で共有されるでしょうか。
「人を傷つけてはならない」といった普遍的に思えるような価値観についても、その「人」には本当に「全ての人」が含まれていますか? いついかなる状況でも、人を傷つけることをすすんで選ぶことはあり得ませんか? これまで人類の歴史において、実際はどうでしたか?
「清貧こそ素晴らしい」から「多くの素晴らしい物に囲まれた素敵な生活を手に入れよう」への社会的な価値観の非常に分かりやすい変化が、確かにあったのではないですか?
僕も大分前に、「どれだけ多くの人に共有され、真理のように思えるものでも、普遍且つ不変なモノでなければ、それは”社会的物語”にすぎない。言語、感覚、価値観、倫理、法律、制度、正義といったものはもちろん、愛などでさえ例外ではない」という考えに至ったので、深く共感できます。
— みゃる猫 (@nyanyancis) 2017年2月5日
もっと簡単な説明の仕方をして終えますが、結局は、いずれも(特定の時代の特定の集団としての)社会的な合意の上で創造物で”しかない”ために、いずれにも、普遍且つ不変なものが存在していないのです。社会的な創造物でなければ、普遍且つ不変なものが、最初から存在しているはずなのですよ。 https://t.co/rE3MeJxaRN
— 佐脳FRAN (@F_Sano_) 2016年12月21日
*倫理、法律、制度が社会的な合意にしか過ぎないというのは分かるが、どうして言語や感覚、価値観に対しても、社会的物語にすぎないという捉え方をするのか、というツイートに対して
さて、「社会的物語」というような視点(名前は何でも構いません)を手にし、社会的なものはおよそ物語(共有される作り話)でしかないと分かると、あることができるようになります。
それは、「物語でしかない」と分かった上で、「それに乗るか否か」を選べるということです。
言い換えれば、「社会的な物語を利用するか、社会的な物語から降りるか」ということであり、「物語であることに気付かず、ただ物語の中を意思もなく漂っている」状態とは大きく違うことがお分かりかと思います。
利用するにせよ、降りるにせよ、もはやそれは物語に操られている状態を脱しています。あなたの好きなように動けばいいですし、動けるのです。
ちなみに、僕はほとんどの物語から「降りる」という選択をしています。
そのため、冒頭で書いたような「生きるのは素晴らしくも楽しくもないけれど、辛くもない」という状態にいるのかと思います(個人的は安住しているつもり)。
一方、分かった上で取捨選択をし、分かった上で物語に乗れば、(これも冒頭で書いたように)「生きるのが辛い」から、「生きるのは素晴らしくも楽しくもないけれど、辛くもない」を経由して、「生きることは素晴らしい、楽しい」へと“飛べる”かもしれません。
少なくとも、社会的物語によって苦しむことはほぼなくなるでしょうから、それだけ「辛さ」は小さくなるはずです。
さて、なるべく取っつきやすいようにと考えて「人」の捉え方から始め、およそ社会的なものは皆で見る幻想=社会的物語でしかないと理解し、その物語を理解した上で乗るか降りるかを自分で決めることで、生きることに対する「辛さ」を小さくし、(飛びたければ)その先に飛んでください、といった流れでここまで進んできましたが、いかがでしたか?
「もう『生きることは素晴らしい、楽しい』という地点まで飛んだ。お前はもう用済みだ」という方は、どうぞ振り返らずにお進みください。他に言うことも、私にはありません。
「こんなところ(生きるのは素晴らしくも楽しくもないが、辛くもない)にいられるか! 俺は元の場所(生きるのが辛い)に戻らせてもらう!」という方は、止めたりしません。むしろ、ご自身で自分が正しいと思う思考を積み重ね、新たな地点に到達できるよう応援しております。
「君の言っていることは間違っている。私には受け入れられない」という方へ。
別にそれでいいと思います。というのも、別に私は、「他人の思考を変えてやろう」とも、「未だ目覚めぬ者たちを、私が教化するのだ!」とも思っていないのです。
私ができるのは、ただ、情報の組み合わせの結果として、私がこの記事で書いたようなことを潜在的に感じていたり、理解しやすい状態にある人に対する手助けでしかありません。他人の情報の組み合わせそれ自体を変えてやろうとも夢にも思っていません。仮にそのようなことが必要であったとしても、それは私には荷が重いというものです。
最後に、「いやぁ…なんとなく言っていることは分かるけど、いまいちピンとこないというか…、何というか…」という方へ。
そして、(まずいないと思いますが)「ここ(生きるのは素晴らしくも楽しくもないが、辛くもない)がいい。私もここにいたい」という方へ。
次ページで、もう少しツイートとその補足を挙げておきます。
「社会的物語」のようなものについて考える材料や、オモチャにしてください。