私は普段、主にtwitterで「誰も幸せにならない」ようなことをつぶやいており、その元となる考えを「思想モドキ」と呼んでいます。
(→「生きるのが辛い」人へ にまとめています)
しかし、先日ふと、「『思想』には至らないという思いから『思想モドキ』と言っているが、そもそも『思想』って何なんですかね…?」と思い至りました。
……んー。何となくイメージは湧くのですが、言語化できるほどはっきりとした対象は思い浮かびません。
皆さんはどうですか?
「思想」とは具体的にどのような事物を指すのか、言語化して、説明できるでしょうか?
「思想」と似たニュアンスの言葉に、「思考」や「主義」がありますが、これらの(指示対象の)違いを認識できているのでしょうか?
それが分からずに、世の中に溢れる「○○思想」「○○主義」を果たして理解できるのでしょうか?
……というわけで、この記事では、「思想」とは何ぞや? ということを探っていきたいと思います。
ただ、「『思想とは何ぞや?』という、私の思想」になると、話がややこしくなってしまいます。
そのため今回は、私の思想が極力入り込まないように、事典、辞典を中心に各種書物の記述を確認していく形で、「『思想』とは何ぞや?」を探っていくこととします。
この点をご理解頂けた方のみ、以下にお進みください。
■国語辞典の記述
・『広辞苑』
・『大辞林』
・『日本国語大辞典』
■百科事典の記述
・『日本大百科全書』
・『世界大百科事典』
(◇電子辞書のススメ)
■専門の事典の記述
・『哲学事典』
・『事典 哲学の木』
・『新版 心理学事典』
■まとめ
■おまけ
・『新版 日本語使いさばき辞典』(シソーラス)
・『社会科学総合辞典』
・以下、作成中
■国語事典の記述
まずは、国語事典の記述を確認してみましょう。
始めのうちは、単語(「思想」「思考」「主義」)ごとに各辞典の記述を並べて検討していたのですが、そのスタイルだと検討が困難になってしまったため、辞典ごとに「思想」の記述と、それと比較するために「思考」「主義」の記述を確認していくことにします。
まずは、『広辞苑』から。
・「思想」
①考えられたこと。かんがえ。
②[哲](thougtイギリス Gedankeドイツ)
㋐判断以前の単なる直感の立場に止まらず、このような直感内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。
㋑社会・人生に対する全体的な思考の体系。社会的・政治的な性格をもつ場合が多い。
・「思考」
①思いめぐらすこと。考え。
②[哲](thinking)
㋐広義には人間の知的作用の総称。思惟。
㋑狭義には、感性や意欲の作用と区別して、概念・判断・推理の作用をいう。知性的直観をこれに加える説もある。
③[心]
㋐考えている時の心理的過程。
㋑ある課題の解決に関与する心的作用。
・「主義」
(principleの福地桜痴による訳語)
①思想・学説などにおける明確な一つの立場。イズム。
②特定の制度・体制または態度。
③常々もっている意見・主張
「思想」の指示対象(意味合い)には幅があるようですが、『広辞苑』の記述からは、「思考」「思想」の間には、「過程、作用―結果」という関係があると考えられます。
そして、その「思考」により生じた内容・結果が、体系的、(特定の事柄に対し)全体的なものへと至れば、それが「思想」になる、といったところでしょうか。
一方、「思想」と「主義」の違いについては、微妙なところです。
「主義」の記述のうち、①に着目すれば、「主義」は「思想」よりも狭い意味合いとなりますが、③に着目すれば、「思想」よりも広い意味合いとなります。さらに、②については、「思想」にはない意味合いです。
ただ、「主義」は”訳語”として日本語の言語体系に”入ってきた”ということなので、「思想」の上位語として”日本語の言語体系内で”作られた用語ではありません(要は、英単語が日本語の言語体系内に入ったということ)。
そのため、”結果として”、指示対象に明確な違いのない用語が並立することとなったのであり、「思想」の上位語として「主義」という用語が作られたというわけではない、と考えれば、意味合いの違いがさほどなくても、おかしくはありません。
ただ、個人的な感覚としても、現在での一般的な使われ方からしても、「主義」という用語は、「思想」に比べ、強いインパクトを持っているように思います(強い意志、対立など)。
…『広辞苑』の記述でも、「明確な」「常々」といった箇所に、そのような意味合いを含めているのかもしれませんが、どうなんでしょうね。
次は、『大辞林』。
・「思想」
①人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。
②[哲](thought)単なる直感の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容。
③考えること。考えつくこと。
・「思考」
①考えること。また、その考え。
②[哲](thinking)意志・感覚・感情・直感などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。思惟。
・「主義」
①常にいだいている主張・考えや行動の指針。
②特定の理念に基づく、学説や思想上の立場。また、体制や制度。〔「哲学字彙〕(一八八一年)に英語principleの訳語の一つとして載る。本来「道義を重んじて尊ぶの意で漢籍の「逸周書」にある〕
大よそ『広辞苑』の記述と同じように見えますが、「思想」の③と、「思考」の①を見比べてみてください。……両方に、「考えること」という記述があります。
これが同じ意味だとしたら、「思考」「思想」の間には、常に「過程、作用―結果」という関係がある”というわけではない”ことになります。また、思考①に「考えること。また、”その考え”。」とあるので、「思考」の結果も「思考」という用語で言い表せることとなります。
んー。どういうことなんでしょう。
「思想」は「思考」と同じものである”場合もある”、ということなのか…。
なお、「主義」については、「行動の指針」という記述に、「思想」との違いが見てとれます。 『広辞苑』のところで挙げた「インパクト」のようなものも、多少、満たされているのではないでしょうか。
もう一つ確認してみましょう。
・「思想」
①(―する)心に思い浮かべること。思いをめぐらすこと。また、その考え。
②哲学でいう。
㋑思考されている内容。広義には意識内容の総称。狭義には、直接的な知覚や具体的な行動と対比して、文や推論などの論理的な構造において理解されている意味内容。
③社会、人生などに対する一定の見解。
・「思考」
①考えること。思いめぐらすこと。また、その考え。思案。
②哲学で、広義には、意識の作用や内容の総称。狭義には、感覚や表象の内容に対して分析、総合、秩序づけ、統一を行って、概念を作り、判断をすること。また概念や判断について論理的に推理していく精神作用。思惟。
③心理学で、単なる感性の作用と区別して、概念、判断、推理の作用をいう。人間は動物と異なって思考による内的過程を経て行動するところに特色があるとされる。
・「主義」
①道義をもととすること。また、正しいと信じて守る一定の主張。
②(英 principle の訳語)思想や学説などの拠って立つ原理、原則。また、主として守る思想上の立場。
③常にもっている考え方や行動の方針。
④(多く接尾語的に用いられる)特定の原理に基づく社会体制、制度など。絶対主義、封建主義などの類。
[語誌]
(1)日本では、明治以降英語のprincipleの訳語して用いられるようになって一般化し、さらに英語の接尾辞-ismの訳語にも当てられるようになって今日に至る。
(2)当初、principleには「根本、理、原由、定説、元素」(慶応再販英和対訳辞書)、「道」(百学連環-総論)、「原理」(万法精理)などの語が当てられたが、「万法精理」では、英語のvirtue, principle の訳語として「主義」の語も用いており、このころから使われ始めたと思われる。ヘボンの「和英語林集成」には、第三版(一八八六)に至って収められ、その時期には定着していたと思われる。
…また、「思想」と「思考」の違いが怪しくなっていますね。
「思想」の①と「思考」の①が、ほぼ同じ内容です。いや、「思想”する”」という用法になれば、ということなのでしょうが、「思想」って、「する」ものなんですか…。
ここでも、「思考」と「思想」は「過程、作用―結果」という関係でない場合もある、ということになると共に、「思考」と「思想」が同じものである場合もある、ということになりそうですね。
しかし、「主義」については、「思想」との違いがより分かるようになっています。
「正しいと信じて守る」「拠って立つ原理、原則」「主として守る」あたりに、「思想」と言った場合には感じられず、「主義」と言った場合に感じられるインパクトを読みとれます。
さて、ここまで3冊の国語辞典の記述を確認してきましたが、いかがだったでしょうか。
ざっくりまとめてみると、
また、「思想」と「主義」の違いについては、(「主義」が”訳語”として日本語の言語体系に入ったことから、指示対象に重なる部分も多いが、)「主義」と言う場合には、「信じて守り、行動の指針や原則とするもの」といったニュアンスが含まれる。
ただし、「思考」と「思想」は必ずしも、「過程、作用―結果」の関係にあるわけではなく、両者が同じものを指す場合もある。
といったところでしょうか。
それぞれの違いも分かったと言えば分かったのですが、「思考」と「思想」が同じものを指す場合もある、というのが・・・。なんだかなぁ…。
コーパス分析のようなことをやれば、どれくらい、そのような用法で使われているのかは分かるかもしれませんが、結局、言葉(単語)の指示対象(意味)というのは、結局は個人の経験によって定まるより他ないので、何か一定の”答え”があるものではありませんからね。
とりあえずは、以上のような把握の仕方をしておくしかありません。
ここからはもう少し詳しく、「思想」という用語について確認していきます。
まずは、百科事典。次に、専門の事典(哲学事典などの○○事典)。最後に、その他書物。このような順序で確認します。
正直、今回の場合は微妙でしたが、国語辞典→百科事典→専門の事典と調べていけば、その時点で大抵のことに関しては(専門に研究するような場合を除けば)十分な知識が得られます。また、専門の事典には項目ごとに文献リストがあるので、より詳しく知りたいことだけ、書籍にて効率良く調べていくことが可能になります。
ぜひ、この手順”は”参考にしてみてください(特に大学生)。
■百科事典の記述
・「思想」
広義には、思考によって精神のうちに生じたすべての現象をいい、これには高次なものから順に次の四つの段階を区別することができるだろう。(1)明確な体系的秩序をもった理論や学説。(2)世界についてのいろいろな見方、人生についてのいろいろな考え方を表す世界観、人生観を包括したもの。(3)日常の生活場面においてことに処するときの、ものの見方、考え方。(4)理性的反省以前の生活感情、生活ムード、意識下にある志向。
デカルトやカントの思想という場合には(1)の段階をさすことになるが、(4)の場合のような原始的段階まで含めて用いられる広義のことばなのである。一般的に、原理的、体系的な思考としての哲学に比して、思想はより具体的な素材に即してそのつどの思考を展開するものをさしていると考えていいであろう。
・「思考」
文字どおり思い考えることが思考であるが、論理学のうえでは、さまざまな概念を結合して判断し、さらに判断を結合して推理することが思考とよばれる。思考はそれぞれの思考内容においては異なるが、形式においては共通性をもつ。<略>
哲学では思考を思惟とよぶこともあるが、これについてはさまざまな見方がある。一般に思考する能力は知性とか理性とよばれ、感情や意志から区別されるが、……デカルトは、思考を感情や意志の働きをも含めた広義での人間精神の働きとしてとらえ、そうした思考を精神(心)の属性と考える。またカントによると、思考は自発的な悟性の機能であって、それは受容的な感性を通じて与えられた直感内容と結び付いて、初めて対象についての認識を与える。つまり単なる思考だけでは認識は成立しない。しかしヘーゲルになると、いっさいの真なる思想は精神の活動である思考を通じてのみ産出されることになる。なおデューイは、こうした思弁としての思考の絶対化を退け、人間の思考は生物体としての人間が環境に対応していくための道具であり、したがってそれは経験の場においてのみ有効であるとした。<後略>
・「主義」 ―なし
やはり、「思想」の指示対象は幅広く、様々な次元で用いられるようですね。
4つの段階の区別のうち、(1)~(3)までは国語事典でも書かれていた内容ですが、(4)の「理性的反省以前の生活感情、生活ムード、意識下にある志向」まで含むとは…。
そうなると、思想とは一体……となりますが、「広義には、”思考によって”精神のうちに生じたすべての現象」と最初に述べられているので、この百科事典の言語体系内においては、「思想」は「思考」とは区別できるものとなっているでしょう。
(「志向」は「思考」足り得るのか…という疑問が生じましたが、それは次にとり上げる百科事典の記述で解消されました)
もう1つ、とり上げておきましょう。
(*リンクは、2009年改定版)
・「思想」
一般に、哲学や文学、芸術、あるいは政治や社会認識、宗教や科学など、さまざまな分野の知識体系と、その根底にある総合的な観念体系を指していう。この根底的観念体系は、行為したり、話したり、書いたりする人間の表現活動のすべて、すなわちまた、知的な思考活動だけでなく想像力や感情をも含む人間の心の働きの表出のすべてであるが、単なる断片(想念)ではなく、人間が生きる世界と、そこでの人間の生き方に関する、なんらかの程度で組織だった(体系的な)理解の仕方である。<略>
ところで、西欧では、〈思想〉を意味するthought(英語)、Gendanke(ドイツ語)、pensee(フランス語)などの語は、伝統的に思考と密接に結びついて考えられてきた。古くは、意志をも含んだ精神活動全体を指していたが、18世紀以降、より厳密に思考を主観的な反省や推論などの理性的意識の活動と考え、さらにそれを普遍的理念に基づくものとする観念論的考え方が確立されると、思想ももっぱら理性の活動とその所産として理解される傾向が強くなった。しかし、マルクスが、政治的、法律的観念や制度、哲学や宗教、道徳をも含むあらゆる意識形態を、物質的な生産関係(下部構造)に規定されるイデオロギー(上部構造)として解明し、またS. フロイトが、心の無意識の活動を発見し、欲動の力動的な機制から文化や社会を解明する観点を定期するなど、19世紀末から20世紀初めにかけて、思考の非理性的な基盤が明らかにされると、思想を知的活動だけでなく感性的イメージをも含むより広い人間の表現活動とみる考え方がひろがった。それとともに、人間の表現活動を、主観的な認識や信念をこえた客観的な集合的活動とみる見方も一般化した。
そこで、丸山貞男がいうような、思想を次のような四つの成層において見る考え方が一般的となる。すなわち、①もっとも抽象化された理論や学説の下に、②より一般的な世界や人生についてのイメージの体系(世界観、人生観)があり、さらにその下に、③具体的、個別的な問題・状況に実践的に対応する意見、態度があり、もっとも底辺には、④生活感情、実感、さらには意識下の次元がある、とする見方である。こうして現代では、思想の表層と深層が区別され、思想と言う概念の内容と範囲がひろがるとともに、思想の深層の探求が、旧来の知の体系を革新しつつある。
さて、このように思想の概念は多義的であるから、日常的には、思想という語の使われ方も多様である。日本でこの語が今日に近い意味で用いられるようになったのは、明治以降、とくに明治20年代のころからといわれている。その場合、西洋の哲学や文学、あるいは政治・社会思想の移入にともなってそれらの諸思想を指して用いられ、同時に、そのような問題を考えることが思想と呼ばれた。そして、明治30年代以降、近代的自我の覚醒が家制度や国家権力との緊張関係のなかで、いわゆる〈私小説〉的精神風土を生むにつれて、思想は人生問題を中心とする内面の煩悶を示す言葉ともなった。やがて西欧近代思想が本格的に研究され、また社会主義や無政府主義が導入されるとともに、ひろく社会問題を論じ、社会改革を主張するものを、とくに思想の名で呼ぶようにもなり、ついには〈思想問題〉や〈危険思想〉という言葉も生まれて、思想という語に政治的意味合いが含まれるまでになった。とくに第2次大戦前の昭和期には、〈思想的〉という語が〈左翼的〉〈革命的〉という含意をもつまでになった。このような多様な含意は、日本語の思想という語に、西欧の場合のような厳密な思考との密接な関連を失わせる傾向を生んだが、今日では、思想は、洋の東西を問わず、前記のような理解の直しが求められている。
・「思考」
思考とは、実際に行動として現すことを抑制して、内面的に情報の収集と処理を行う過程である。この場合、機能的に見て思考を二つの方に分けることができる。一つは〈合理的思考〉であって、問題に直面したときにそれにふさわしい解決を目指すという意味で、〈方向づけられた思考〉とも呼ばれる。もう一つは〈自閉的思考〉であって、空想のようにとりとめのない気まぐれな連想によって生じる非現実的思考である。前者は、問題解決のための論理的推論を導くための過程であり、概念、判断、推理から成る。しかし、発明・発見の過程や芸術的創作の過程などにおいては、問題解決をめざしながらも合理的思考だけではその目的に十分に達することができない。論理の枠にしばられずに自由奔放な連想の後、直観的に認識を生み出す過程もここには含まれているからである。したがって思考のこの二つの型を厳密に区別することはむずかしい。
そのうえ、意識的過程だけでなく、無意識の中で展開される思考も少なくない。……にもかかわらず、伝統的には思考は意識(論理的思考)とほぼ同義に用いられており、初期の思考心理学は意識の過程を自分の意識によって観察する方法(内観法)で、その研究を進めてきた。とりわけ連合主義心理学は、過去の感覚的経験のなごりである心像の組み合わせによって、思考を説明した。しかし心像を含まない思考もありうることが、その後、ビュルツブルク学派の心理学者たちによって指摘されて以来、思考研究は二つの方向に発展していくこととなった。第1は、思考を意識としてでなく行動としてとらえようとする行動主義心理学の立場からの研究である。……新行動主義では、思考を反応そのものというよりも、刺激に対して外部的反応をひきおこす前に生じる内部的反応とみなし、これを媒介反応と呼んでいる。いずれにせよ、ここでは思考は刺激と反応との連鎖によりいわば思考錯誤的に解決に迫る過程とみなされる。第2は、思考を場の再構造化の過程としてとらえるゲシュタルト心理学の立場である。ここでは思考が、〈洞察(見通し)〉または観点変更という知覚の法則で支配される過程とみなされる。その結果、ものごとを一挙に洞察する直感が、論理上に重視されることとなる。このようにして思考研究は、思考のよりどころを論理に求めなくなっていった。<後略>
・「主義」 ―なし
結構省略しても、この文量。そして、各学問分野での取扱いも述べられています。
百科事典を読んだことがない方もいるかもしれませんが、このように、専門に研究するような場合を除けば十分な内容が書かれていることが多いので、ぜひ一度使ってみてください。
さて、内容についてですが、西欧において「思想」にあたるthoughtなどの語は、
<意志をも含んだ精神活動全体>
→<厳密に思考を主観的な反省や推論などの理性的意識の活動と考えての、理性の活動とその所産>
→<思考の非理性的な基盤が明らかにされての、知的活動だけでなく感性的イメージをも含むより広い人間の表現活動>
という流れで、指示対象(意味合い)が変わってきた、という点が重要なように思います。
おそらくは、このようにして意味合いが変わってきた用語を用いた文脈に日本人が触れることで、日本語の「思想」の意味合いも変化していったのでしょう。
そして、日本においてはさらに、
<明治以降、西洋の哲学や文学、あるいは政治・社会思想と、そのような問題を考えること”自体を”「思想」と呼ぶ>
→<その後、西欧近代思想が本格的に研究されると、ひろく社会問題を論じ、社会改革を主張するものを、とくに「思想」の名で呼ぶようにもなる>
→<社会主義や無政府主義の影響で、〈思想問題〉や〈危険思想〉という言葉が生まれて、「思想」という語に政治的意味合いが含まれるようになった>
という事情が加わり、「思想」には様々な次元の意味合いが含まれる結果となったわけです。ここに、「思想」という用語の特徴があるのでしょう。
また、「思考」と「思想」の違いについては、「思考」については「実際に行動として現すことを抑制して、内面的に情報の収集と処理を行う”過程”」とあり、「思想」では「この根底的観念体系は、行為したり、話したり、書いたりする人間の”表現活動”のすべて、すなわちまた、知的な思考活動だけでなく想像力や感情をも含む人間の”心の働きの表出”のすべてである」とあるため、『世界大百科事典』の言語体系においては、両者は「過程、作用―結果」の関係にあり、そこに混同はないと考えられます。
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◇電子辞書のススメ
さて、以上を読めば、「国語辞典と百科事典の有用さ」や「面白さ」を概ね理解していただけることでしょう。
今回は、かなり抽象的で指示範囲の広い用語をとり上げていますが、より具体的で指示範囲の狭い用語を引けば、より国語辞典と百科事典の利用価値は高まります。
しかし、実際に辞典・事典類を使うようになると、「毎回図書館に行って、色んな辞典・事典を引いて回るのは大変だなぁ…」と思うときが来るはずです。もちろん、その過程が楽しかったりもするのですが、毎回のこととなるので、そんな時間的、精神的な余裕がないこともあるでしょう。
その苦労をなくすには、辞典・事典類を買い揃えるのが一番ですが、如何せん、高すぎる。
特に、百科事典を揃えようとなどすれば、一シリーズだけで10万は余裕で超えます(例えば、平凡社の『世界大百科事典』であれば、”270,000円+税”)。それを複数揃えようというのは、よほどの財力がなければできません。
また、辞典・事典類を買い揃えたとしても、今度はそれを置く場所に困ってしまいます。
そこでお薦めしたいのは、やはり電子辞書を購入すること。
学生時代には英和・和英辞典くらいしか使わなかったという方が多いかもしれませんが、ある程度の値段のものであれば、有用な辞典・事典類が十分入っています。
例えば、CASIOの「XD-G20000」。
17/07/06 現在、amazonでは42,800円で販売されています。
…高いと言えば高いですが、しかし、収録されている辞典・事典を考えれば、値段以上の価値があるのです。
例えば国語辞典系では、『広辞苑』『新明解国語辞典』などはもちろん、大型国語辞典である『日本国語大辞典』まで入っています。また、『日本語大シソーラス』『角川類語新辞典』なども有用でしょう。(シソーラスについては、本記事「おまけ」の項目を参照)
また、百科事典系は、『ブリタニカ国際大百科事典』『日本大百科全書』『マイペディア』『ビジュアル 科学大事典』『ブリタニカ・コンサイス百科事典(英語)』と、物凄いラインナップです。
もちろん、語学系の辞書、書籍などのラインナップも豊富です。収録物一覧は、公式HPにて確認してください。
さて、このような電子辞書を手元に置いておけば、気になることが出てきた際、すぐに国語辞書→電子辞書という流れで確認することができます。
それで満足すればそこで終わりにしていいですし、もう少し調べたいと思ったら、そこで初めて図書館に行くことになります。非常に効率的ですね。
なお、図書館に行った際には、電子辞書に入っていない百科事典をまず引いてみてください。それで目的が達成されなければ、次は、専門の辞典(○○学辞典)です。
残念ながら、専門の辞典は、ほとんど電子辞書には収録されていません。
百科事典の内容も非常に優れているのですが、しかし、やはり一般向けに書かれたもの。紙面の都合もあり、あらゆる学問の成果をとり上げることは不可能です。それを補うためには専門の事典が有用なのです。
・専門の事典の記述
ここからは、専門の事典(○○学事典など)の記述を確認していきます。
……が、実際に専門の事典を引いてみると、「思考」「思想」「主義」といった用語を単独項として扱っている事典はかなり少なく、驚かされます。
これは、(「思想」や「主義」はまだしも、)学問を含めた知的活動の根本にあるであろう「思考」さえ、「”その学問内で”研究されていない」ということを表しているようなものではないでしょうか。果たしてそれで、研究が十分になされ得るのでしょうか。
また、本当にその学問内で「思考」などについて研究がなされていなかったとしても、(余所からの援用によって)その学問内での研究をするに足りるレベルの記述を載せることは、”専門の辞書”として当然果たさなければならない義務なのではないでしょうか。
…さて、”私が確認した限りでは”、「思想」と「思考」をそれぞれ(独立項として)とり上げているのは哲学系の事典だけです。
「主義」に至っては、”私が確認した限りでは”、(独立項で)とり上げている専門の事典は一つもありませんでした。(もっと多くあたれば、政治学事典あたりに書いてあるかもしれませんが……)
というわけで、まずは哲学系の事典の記述から確認しましょう。
・思想
「思想」という用語は、日本において、とくに第2次世界大戦後の日本において、広く一般に使われているものであるが、皮肉なことに、哲学、思想の用語中もっとも曖昧なものの一つにさえなっている。それは簡単にいうなら、用語の厳密さを欠いたムード的使い方の結果であるとすることができようが、そのこと自身が日本の「思想」的体質、あるいは精神風土にかかるものであれば、はじめに、第2次大戦以前の日本における「思想」という用語の使われ方を瞥見しておくことが必要であろう。
1889(明治22)に大沢祝が『方今思想界の急務』という一書を著しているが、この時期には「思想」の名を冠した著作はまだ少ない。これが明治30年代の後半にはいると島村抱月が『新小説』に書いた「思想問題」をはじめ、主として「社会主義」との連関で「思想」という用語がかなり頻繁に使われるようになり、「社会主義思想」のほか、「虚無思想」「自由思想」が問題にされるようになる。
(中略)
その後大正末期から昭和の初期、さらには第2次大戦中期へと進むにしたがって、「思想」はしだいに危険視されて、「検閲」「善導」「対策」などの対象となった。また逆に、「日本思想」の独自性や「思想報国」なるものが喧伝されることにもなり、さらに「思想戦」なる言葉が示すように、「思想」も戦争や国家への奉仕をしいられることになった。
(中略)
第2次大戦敗戦後の日本を襲った未曾有のきびしい現実のなかで、「哲学」もはじめて拘束なしに自由に展開しうる機会をもつに至ったが、現実と無関係か、ゆがんだかたちでしか現実との結びつきを概してもちえなかったそれまでの「哲学」に対する反省と新しい欲求から、「哲学」に代わって「思想」がしだいに大きくクローズ・アップされるようになってきた。そしてこの場合、戦前と同じく、「哲学」よりも広範囲の具体性を帯びたものという側面と、社会主義やリベラリズムと連関をもった側面とが、「思想」をして「哲学」と区別させたわけであるが、それに結びつきながら、新しい要素として、敗戦後までほとんどといってもいいほどタブーの部分が多かった「思想史」研究が、未開拓の分野を次々にきり開いていったことも見落とされてはならない。とくに、権力支配、反政府運動などの資料の公開や発見が、基礎的な素材としてその動向を促進した。
……日本語の「思想」に対応する英仏語として、thought, Denken, pensée と idea, Idee, idée との2系列をあげたが、この2系列のそれぞれの内部においてさえ、各国語によってかなりのニュアンスの相違をもっている。……日本語の「思想」がこの二つの系列の両方にまたがっていることに注意しておく必要がある。すなわち、簡単にいって前者は個人的色彩がつよく、後者は客体化されたものとしての色彩がつよい。日本語の「思想」はこの二つの要素を共に、しかし曖昧に含んでいるところに、便利さと曖昧さとがある。
(中略)
では、「思想」と「哲学」とは、相互にどのような概念上の相違と関係とをもっているのであろうか。丸山真男は、広義の「思想」を次の四つのものの成層としてとらえている。いちばん上には、(1) もっとも高度に抽象された体系的な理論、学説、教義などがあり、次に、もう少し包括的に、(2) 世界についてのイメージ(イマージュ)である世界観、世界像、あるいは人生観などがあり、その下には、(3) より具体的な問題に対する具体的対応としての意見あるいは態度といったものがあり、そして、いちばん下には、(4) 理性的反省以前の生活感情、生活ムード、実感、さらに意識下の次元がある、と(『思想史の考え方について―類型・範囲・対象』)。この分類でいえば、「哲学」の理論や学説は、第1の分類に属する。
しかし、もっと端的に、次のようにとらえ、区別することができる。すなわち、「哲学」は事物(自然、人間、社会)についての、より理論化され概念化された原理的な考察であるが、多分に形相的(フォーマル)に、また抽象的にならざるをえない。これに対して「思想」はもって素材(マテリアル)に即し、そこにあるさまざまな問題を思いめぐらすもの(および思いめぐらされたもの)である、と。したがって、「哲学」に対する「思想」の重視は、多分に、「素材」「データ」「実証」の重視と結びつき、二つの意味で「マテリアリズム」―「素材主義」と「唯物論」―への傾斜をもつ可能性をもっている。とくに第2次大戦後の日本の学問、思想界では、「社会科学」の処女性のゆえに、その傾向が顕著であった。
……「思想」は、社会諸科学の多くの成果やデータ、もしくは素材(マテリアル)に即して、自己を豊かにし、鍛えていく点に積極的な意味をもっている。そして、「思想」が新にその名に価するための前提条件として、(1) 現実(事物)に対するリアルで醒めた認識、(2) 理論や思想における自己客体化、(3) 自明性の打破と考えうるさまざまな反論に抗しての考察、の三つをあげることができ、これらの三つの条件をみたす「思想」をモデル化して示せば、「現実」のもつさまざまな局面を思想的にうけとめ、そのうけとめたものを自己の検討の対象とし、さらにそれを、自明性の背後にまでさかのぼって、すすんであらゆる異論とつき合わせ、それを克服し、あるいは一貫性をもちながらそれを包み込んでいく完結したシステムということになる。この場合、「現実」がトータルな現実であるとき、そこに得られるものが堅固な世界観にほかならない。
・思考
哲学的概念としては思惟と同じ。心理学的にみれば、われわれがなんらかの形で課題解決を要求されるような状況に当面し、しかもそれを習慣的手段によって解決しえないような場合には、手段の探索がおこなわれ、その変形が生じ、あるいは手段体系のあたらしい構成が生じるが、このような課題状況に対処する精神機能を思考という。このように広義に考えると、思考はおそらくあらゆる行動の変容に萌芽的にふくまれている原始的機能といえるが、これが明瞭な形をとってあらわれるのは高等動物および人間においてである。類人猿が木の枝を道具として餌をとったり、子供が知恵の輪を解くときのように具体的な状況が眼前にあたえられ、かつ具体的動作によって解決される場合には、動作的思考または対象的思考といわれる。具体的対象をはなれ、過去や未来に関係した抽象的世界内の事物を取り扱わねばならなくなると、ここに言語的体系の補助が必要とされてくる。人間はこのような言語の手段体系をおどろくほど豊富に発達させるに至った。言語的体系を手段とする思想の世界は、あたかもそれだけが独立にうごいているようにみえるが、じつは常にその背後に足場としての動作的手段が厳存するのである。……現実に思考がはたくためには過法の経験のはたらさが現在の精神過程中になんらかの位置を占めねばならない。通例、過去の経験は概念(心像、観念)によって代表される。(後略)
かなり省略しましたが、百科事典とは少し内容の性格が異なることがお分かりいただけるかと思います。
専門の事典はこのように、その用語の「意味」を「定義」することよりも、その事物についての研究史や、その事物が持つ意義を述べることに重きを置くものがあります(そうでないものもある)
。専門の事典を、ある”学問の事典”と捉えるなら、研究者の手助けや、研究の社会への還元などのために、そのようなスタイルを採るのは自然なことでしょう。
さて、内容についてはまず、「思想」の項目内の、「思想」は戦後期における「哲学」に対する反省と新しい欲求からクローズ・アップされた、という箇所に注目すべきでしょう。
戦後の厳しい状況の中では、具体性を帯びたものを欲する状況が生じるのは自然であり、そこに戦後混乱期に起きても決して不思議ではない社会主義やリベラリズムの興隆(つまり社会制度変革の機運)が加わることで、日本における「思想」という用語の取り扱いは大きく規定されたのではないでしょうか。
また、「思想」は thought-idea の二つの系列の両方にまたがる便利で曖昧な用語である、という記述も面白いですね。
これまで確認してきたように「思想」という用語の指示対象には次元の幅がありましたが、西欧系の言語体系内では分節されている事物が日本語の言語体系内では分節されていないわけですから、どうしても「思想」という用語がカバーする対象は広くなるわけです。
「思考」については、「思惟」の項目を確認しないと駄目そうですね。近いうちに確認します。
→追記(17/06/30):確認しました
〔英〕thinking 〔独〕Denken 〔仏〕pensée
思考ともいう。認識一般において受容的な多様性の側面に対して、能動的統一化の側面を思惟といい、古くから感性的知覚に対立させられている。そのさい、統一的なものが認識主観の構成によると考えられるにせよ、あるいは対象的に(たとえば形相として)あらわれるにせよ、思惟は(個別的なるものにむかう感覚に対して)普遍的なるものの把握であると考えられる。この側面だけを抽象的に分離すると、たとえばカントにおけるように認識と思惟とが区別され、思惟は空虚であるといわれる。逆に認識一般において思惟が決定的な役割をはたし、認識の客観性もしくは有効性の最後的保証が(たとえばデカルトやカントの「われ思惟す」におけるように)、思惟のうちに求められるとすれば、思惟は認識の、したがってまた客観的現実の絶対的原理にたかめられ、このことの自己意識(すなわち思惟の思惟)が哲学そのものにほかならないともいわれる。思惟はその発動する状況に応じてさまざまな性格をとり、目的に奉仕する他律的思惟(この場合には多く思考とよばれる)、自律的思惟が区別される。哲学史上重要な思惟概念は後者である。特殊な用法としては、ペルメニデス、アリストテレスをはじめ、デカルトにおける精神実体の属性としての思惟、スピノーザの神即自然の一属性としての思惟、へーゲルの客観的思惟などがある。
”文章が”よく分からないですが、「古くから感性的知覚に対立させられている」、「思惟は(個別的なるものにむかう感覚に対して)普遍的なるものの把握である」あたりは、国語辞典などでも述べられていたことですね。
例えば、『大辞林 第三版』の「思考」の項目では、「②[哲](thinking)意志・感覚・感情・直感などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。思惟。」とあります。
ただ、「思惟はその発動する状況に応じてさまざまな性格をとり、目的に奉仕する他律的思惟(この場合には多く思考とよばれる)、自律的思惟が区別される。哲学史上重要な思惟概念は後者である」という記述があるため、(著者が想定する)哲学においては、「思惟」は「思考」よりも広い指示対象を持つ用語なのでしょう。
・「哲学」の項目内、「哲学と思想」
哲学者が同時に思想家であり、思想家が同時に哲学者であることは多い。しかし、哲学と思想はまったく異なる。その違いをイメージ的に言えば、こう言えよう。 哲学は欠けている何かを補おうとし、思想は存在している何かを付け加えようとする、と。
善悪の問題を例にとろう。世の中ではしばしば、何かが善いとか悪いとか言われる。しかし、善とか悪とかはそもそも何を意味するのか? こういう疑問を持ち、その間題を探究してみようと思ったなら、その人は哲学をしたいと思ったのである。それに対して、世の中でしばしば語られる善悪の基準に疑問を持ち、自分自身の基準を持つことを求める人がいたとすれば、その人は思想を持ちたいと思ったのである。
哲学的探求をまったく欠いて思想の構築がなされることは、まず不可能であり、逆に、哲学的探究が結果として思想を生み出してしまうこと、また避けることができない。にもかかわらず、この二つが求めるものはまったく異なっている。思想を求める人にとって、哲学的探求はできるならなしにすませたい煩わしい回り道であるにすぎないのに対し、哲学を求める人にとっては、生み出された思想こそが哲学的な探求からはき出されたゴミのようなものにすぎないからである。
思想家は警世家である。彼らは、普通の常識人以上に(つまり常識を超えた)確信を持った人々なのである。哲学者は違う。哲学者は、常識をすらも確信を持って語れない人、常識がなぜそのようなことを確信しているのかがわからない(がゆえにそれを知りたいと思っている)人である。たとえ、哲学の探求が常識とは違った確信に達して止まったとき、哲学というものを知らない人々の眼に、そこに思想が構築されたように見えるとしても、そうなのである。
この『事典 哲学の木』には、「思想」の独立した項目はありませんでしたが、「哲学」の項目内に面白い記述があったので、とり上げておきます。
先ほど挙げた「哲学事典」にも、
「『哲学』は事物(自然、人間、社会)についての、より理論化され概念化された原理的な考察であるが、多分に形相的(フォーマル)に、また抽象的にならざるをえない。これに対して『思想』はもって素材(マテリアル)に即し、そこにあるさまざまな問題を思いめぐらすもの(および思いめぐらされたもの)である」
とありましたが、この『事典 哲学の木』では、
「哲学は欠けている何かを補おうとし、思想は存在している何かを付け加えようとする」
という表現がされています。およそ同じことを言ってると考えれますね。
そして、そのうえで、
「善とか悪とかはそもそも何を意味するのか? こういう疑問を持ち、その間題を探究してみようと思ったなら、その人は哲学をしたいと思ったのである。それに対して、世の中でしばしば語られる善悪の基準に疑問を持ち、自分自身の基準を持つことを求める人がいたとすれば、その人は思想を持ちたいと思ったのである。」
という具体例を挙げており、ここに「思想」のマテリアリズム的な性格が読みとれるようになっています。
次は心理学の事典です。
・思考
考えること、思うこと、すなわち考える働きあるいは過程を思考といい、考える内容、考えた所産は考えあるいは思想……という。しかし「考え」も、「下手の考え休むに似たり」というように、考えることの意味でも使われる。
考える働きに含まれる範囲は、広く複雑な高次の精神活動の全般にわたっている。<中略>
このような広い範囲に共通して含まれているのは、現在与えられている刺激事態に対して、すぐに外的反応をすることを差し控えて、なんらかの意味で適当的な内的過程を進行させるということである。このうち、狭い意味での思考あるいは典型的な思考の事態とされるのは、正常な文明人のおとなが冷静に考える場合を暗黙のうちに想定している。この思考は次のような特徴を備えている。1)問題性 当面した刺激事態において、今までのやり方ではすぐに反応することができない、あるいは適当ではないという事態が外から与えられ、あるいは主体の認識として生ずる。問題の成立である。2)延滞性 そこで主体はある時間、直接に反応することを差し控え、その間に適切な反応を準備するための内的過程を進行させる。3)指向性 すなわち、問題の解決に向かって進もうとする。4)論理性 その際、物や事柄やその間の関係などを概念や命題で表し、それらを表す働きをするもの(代表子 representaion)の間に結合や変換を行なって、前提から結論まで論理をたどってつなげるようにする。時間的経過の中で、次の代表子を得るのに常に論理に導かれるとは限らないが、あとで代表子間に倫理に従ったつながりがあるかどうかの点検が行なわれる。客観的妥当性、問題の認識、考える途中に登場してくる代表子、得られた結論などが、現実とよく対応したものであるかどうか、より広い一般性をもつかどうかなどの検討が行なわれる。
<後略>
さて、後略部分には「思考」についての記述が続くのですが、「思想」の捉え方は実に簡潔なものです。
「考えること、思うこと、すなわち考える働きあるいは過程を思考といい、考える内容、考えた所産は考えあるいは思想……という」とあるため、まさに、「思考」と「思想」の関係は「過程、作用―結果」の関係である、ただそれだけ、ということでしょう。
他の心理学系の辞書では(確認した限りは)「思想」について扱っているものはなかったことを併せて考えると、おそらくは、心理学において「思考」は重要な研究対象であっても、「思想」はそのような対象にならないというような事情があるのだと思われます。
学問によって、その関心が違うということが分かる、よい例になるのではないでしょうか。
ちなみに、社会学や政治学は「思想」に関心がある学問だと思えますが、確認した限りでは「思想」を独立項として扱っている事典はありませんでした。
当然、「○○思想」についての記述は多くあったのですが、「思想」自体についての記述なく、各種思想をとり上げるのは、事典として果たして成り立っているのか、個人的には疑問に思えてなりません。
さて、ここまで「国語辞典」→「百科事典」→「専門の事典」という流れで、「思想」についての記述を確認してきましたが、「思想」とは何なのか、(大よそは)理解できたでしょうか?
「結局は、どういうことなのさ?」と思っている方もいるかもしれませんね。
ここで内容をまとめて、確認してみましょう。
まず、国語辞典の記述を確認した段階では、以下のようにまとめました。
・また、「思想」と「主義」の違いについては、(「主義」が”訳語”として日本語の言語体系に入ったことから、指示対象に重なる部分も多いが、)「主義」と言う場合には、「信じて守り、行動の指針や原則とするもの」といったニュアンスが含まれる。
・ただし、「思考」と「思想」は必ずしも、「過程、作用―結果」の関係にあるわけではなく、両者が同じものを指す場合もある。
これに、百科事典と専門の事典から得た情報を簡単に組み入れると、
その「思考」により生じた内容・結果が、主に社会や人生に関する事柄に対して、体系的、全体的なものへと至れば、それが「思想」になる。
(なお、「思想」が政治や社会に関するものを指すことが多いのは、明治以降の近代化の過程において、西洋において扱われたそれらに対する名称として「思想」を用いた経緯があるため)
・「思想」は、英語でいう thought-idea の二つの系列の両方にまたがる用語であり、日本語の言語体系内では両者を分節していないために、曖昧で便利な用語となっている。
そのため、「思考」と「思想」は単純に「過程、作用―結果」の関係にあると同時に、両者が同じものを指す場合もある。
・「思想」と「哲学」を対比させると、「哲学」は事物(自然、人間、社会)についての、より理論化され概念化された原理的な考察であり、形相的に、また抽象的なものになるのに対し、「思想」は素材(マテリアル)に即し、そこにあるさまざまな問題を思いめぐらすもの、となる。言い方を変えれば、哲学は欠けている何かを補おうとし、思想は存在している何かを付け加えようとするもの。
このような性格故に、「思想」は政治的、社会的なものや、人生に関するものとなる。
・「思想」と「主義」については、「主義」が”訳語”として日本語の言語体系に入ったことから指示対象に重なる部分も多いが、「主義」と言う場合には、「信じて守り、行動の指針や原則とするもの」といったニュアンスが含まれる。
といった感じでしょうか。
……調べてみると、「思想」という言葉には、それほど大した意味はないように思えますね。
ただ、このような精神作用を”基盤に”各種思想が生れ、それが各人に、そして、様々なレベルの集団に影響を与えるという構図になっていると考えれば、「思想」という精神作用自体には大袈裟な意味合いは必要ないのでしょう。
さて、以上を踏まえ、私の「思想モドキ」が「思想」足り得ているのか否かを考えてみると、およそ「思想」足り得ていると言えそうです。
「思考」により生じた内容・結果が、主に社会や人生に関する事柄に対して、体系的、全体的なものへと至っていますし、素材(マテリアル)に即し、そこにあるさまざまな問題を思いめぐらすものでもあります。
また、上記内容から間接的に導かれることとして、「思想」には、それが”正しいとされる”かどうかは関係ありません。よって、自分の思考の帰結が、上記の要素を満たしていれば「思想」足り得るのです。
……しかし、それでもなお、「思想」と断言することを躊躇する気持ちが残ります。
これは、私の言語体系内においては、「思想」という用語に、上記のようなもの以外の指示対象が含まれているからでしょう。そうでなければ、上記内容を満たしている以上、「思想」であると考えなければおかしいのです。
言葉の意味(指示対象)というのは、個人の経験の集合でしかないため、皆が以上のような意味合いで「思想」を使っているわけではありません。当然、より限定的な意味合いで「思想」という単語を使う人もいれば、より広い意味合いで使う人もいるわけです。
おそらく、私の言語体系内での「思想」には、上記のような要素を満たした上で、「一定以上の社会的評価を受けるもの」という要素が必要なのでしょう。
これは、私がこれまで主に書物を通じて情報を得てきた「○○思想」が、そのようなものだったためだと考えられます。(そして、これがまさに、言葉(単語)の意味は、個人の経験の集合だということです)
私が「思想モドキ」と言って述べている内容は、およそ社会的に一定以上の評価を得るものではないでしょうし、自分から「思想」と言うと、「こいつなに勘違いしちゃってるの?」を思われるだろうという考えがあります。
それ故に、”私の言語体系内では”、私の「思想モドキ」は「思想」足り得ていない、ということになるのでしょう。
……何のために「思想とは何か」を調べたのかよく分からない結論となってしまいましたが、この記事が、多くの人は考えてみたこともないと思われる「思想とは何か」について、改めて考える助けとなれば幸いです。
また、今回は微妙でしたが、思い付いた用語について、様々な専門の事典を引いて内容を見比べると、それだけで面白いので、一度やってみてください。
例えば、「時間」などは各学問での取り扱いの違いが良く分かるのでオススメです。
以下では「おまけ」として、確認はしたものの、とり上げなかった辞典・事典の記述などをとり上げていきます。
まずは、シソーラス的な辞典(類語辞典に近いもの)。
「思考」と「思想」がとり上げられている項目を挙げてみましょう。
考える・考え……思考・意見
■あれこれ考えをめぐらせる 「考える・考え」
▽考える
思考・思惟・思惟(しゆい)・考思・思念
▽考え
思想・意想・意中・心慮・心底・尊慮・旨意・思惑・論・念頭・料簡・了見・了簡
▽よく
熟考・熟慮・熟思・勘考・思案・思考・考察・計慮・惟みる
(▽筋道を立てて深く
思索・思惟)
■考え・意見の様態からみた「考える・考え」
▽あることについてもっている
思想・意見・所見・見解・所思・存念・所存・存意・存慮・存じ寄り・論
思考と思想は「過程、作用―結果」の関係にあるということを再確認する結果となりましたが、改めてシソーラスを確認してみると、面白いですね。
自分の語彙体系内にあっても、普段自分では使わないような用語を再認識できますし、自分の語彙体系内にない用語を知ることもできます。
例えば、この「考える・考え……思考・意見」の項目内だけでも、
「細思」(▽子細に)、知慮(▽先ざきのことや細かいことまでよく考える)、「推究」(▽論理をおしはかって深く考えきわめる)、賢慮(▽懸命な)、凡慮(▽平凡な)、愚慮(▽愚かな)、浅慮(▽浅薄な)、思案所(▽よく考えねばならない場合)、創見(▽今までにない新しい)、臆見(▽勝手な推論による)、私意(▽自分だけの)、貴慮・貴意(▽他人の意見、またはその尊敬語)、衆論(▽世間の大多数の人の)
等々、興味を引く用語が多くあります。
また、シソーラスは「視点」を変えるのにも役立ち、「発想法」の道具としてとり上げられることもあります。
例えば、読書猿さんの『アイデア大全』でも(当然)とり上げられており、部屋を片づけられない状態を改善するために、「部屋を/片づける」を「空間を/整理する」と言い換えることで、「部屋をいくつかのエリアに分けたうえで片づけを順番に取りかかったり、散らかり具合を軽減するアイデアが生まれる」といった例が挙げられています。
加えて、「状況を明らかにする」という目的でも、シソーラス的な視点は役に立ちます。
例えば、ある物事について、否定的な感情を抱いているが、そのような感情を抱いている理由がよく分からないというような場合、
「理解できない」「了解できない」「了承できない」「承諾できない」「承服できない」「納得できない」……
というように類語的表現を並べ、それぞれを検討していけば、自分の置かれている状況が理解しやすくなるでしょう。
このように、シソーラスや類語辞典は面白く、そして有用なので、積極的な活用をお勧めしたいですね。
次は、『社会科学総合辞典』。
「専門の事典」として扱ってよいものか判断しかねたので、「専門の事典」の項目ではとり上げませんでしたが、なかなか記述が分かりやすく、「思考」「思想」「主義」がそれぞれ独立項として扱われていたため、ここでとり上げておきます。
・「思考」
考えること。思惟(しい)と同じ。ただし、「とおくにいる友人のことを考える」というように、漢然と思いうかべる働きは、表象するといって思考とは区別される。思考とは、積極的に推理したり判断したりする高度の脳の働きである。つまり概念を使って論理的に考えることをいう。思考は社会の発展とともに発展してきた。思考が存在を正しく反映してい るかどうかは、実践によって検証されなければならない。
・「思想」
考え、考えられたこと。思考によって得られた人びとの意識の内容と解され、かならずしも理論的な形をとるとはかぎらず、芸術作品なども思想の表現である。思想とは、本来、ただ頭のなかにあるというばかりではなく、人びとの生活や社会にたいする態度を全体的に規定する考えを意味している。たとえば。 思想改造とか、思想問題、思想調査とかいわれる場合の思想とは、これを意味している。
・「主義(イズム)」
一般には、なんらかの原理をよりどころとする1つの立場や意見、主張。①学説・理論・思想傾向において特定の原理・立場をもつ場合(科学的社会主義、プラグマティズム、実存主義など)、②特定の社会体制・制度を意味する場合(資本主義、帝国主義、民主主義など)、③実践上の態度・傾向をあらわす場合(経験主義・教条主義など)に使われる。
「思考」と「表象」の区別などは、これまでに挙げた辞典・事典にはない内容。
やはり、辞典・事典は可能な限り多く引いた方がよさそうですね。
—————以下、作成中—————–
ここからは、法学での「思想」の取り扱いを見ていきます。
というのも、私は法学部出身であり、当然、大学では法学を学んだわけなのですが、以上のように「思考」「思想」「主義」といった用語を検討していくうちに、「そういえば、『思想・良心の自由』の『思想』とは何なのか、という疑問を持ったことはなかったな……」と思い至ったのです。(「実は”学問”をやっていなかった」ということなのでしょうね。悲しいことです)
せっかくなので、この記事にて確認をしていきましょう。
まず念のために、思想・良心の自由について規定する、憲法19条の文言を挙げておきます。
これだけです。
まぁ、法(律)学は「法解釈学」の性格が強いので、これが普通ですし、逆にそうでなければ、法(律)学は不要ですからね……。
というわけで、各種書物の記述を確認してみましょう。
「思想及び良心の自由」
1 意義
人間の内面的な精神活動の自由。その内容が倫理的性格をもつ場合を良心の自由と呼び、それ以外の場合を思想の自由と呼ぶが、憲法19条の趣旨が内心の自由の保障にあると解する立場からは、思想と良心を厳密に区別する実益はなく、一体として内心の精神作用を保障したものであると解される。19条は、一般的に全ての内面的な精神活動の自由を保障しているが、その内容が宗教に関する場合が’信教の自由’〔憲20〕であり、その内容が学問研究に関する場合が’学問の自由’〔憲23〕である。更に、それは、その外部的表現保障である’表現の自由’と表裏一体の関係を保ち、結局、思想及び良心の自由は、これらの自由権の前提となる人権である。<後略>
2 保障範囲
「思想及び良心」とは、ものの考え方に関わる精神作用であり、単なる事実の知・不知は含まれない。それを前提として、保障範囲について、主義・信条・世界観など人格の核心をなすものと解する狭義説と、事物に関する是非弁別まで含む内心一般と解する広義説がある。
<以下略>
…